豊かさと貧しさを産む偶然

29/September/2018 in Warsaw

ウクライナはキエフを訪ね、ふと思ったのは、ある国が貧しくて、ある国が豊かというのは、不平等であると同時に、その大半が様々な偶然の結果であろうということ。

(調査によって差はあれど、日本の平均月給は約32万円、ウクライナは約2万円)

「豊かな国」の人間が「貧しい国」を訪ねた時、「貧しい国」の人達というのは、どこか努力が足りないだとか、民度が低いだとかいう風に傲慢にも思ってしまいがちで、確かにそれも一面真実をついているのだと思う。

しかし、それイコール「豊かな国の人間が全ての面でいつも優れているか」というと、そうではない。人種の違いはあれど、そもそも人間の能力にそんなに大きな違いがあるのかどうか、まず疑わしい。もし大きな違いがないとすれば、どのような要因が、ある国を豊かにして、ある国を貧しいままに留めたのだろうか。

思い至るのは、政治体制や国際事情などの外部要因。例えばウクライナは1990年代初頭まで共産主義政権が権力を握っていて、日本のような西側国家とは異なるグループに組み込まれていた。

戦後、日本はアメリカからの多大なる支援があって経済発展を成し遂げた。もちろんそれを成し遂げるだけの「基盤」のようなものが、日本にはもともとあったのだと思う。

江戸時代の寺子屋制度で国民の識字率が高かっただとか、民族的同一性が高く、一つの目標に向かって進むことが容易だっただとか。

ただ、もしそのような外部からの支援がなかったとしたら。 もし、1945年の後に、またどこかの戦争に巻き込まれていたとしたら。 今のような経済発展が日本ではありえたのかどうか、疑問に感ずる。

様々な偶然の上に、「あやうい偶然」の上に、今の経済発展はあるのかもしれない、という考えに至る。


海外に住んでいると、「自国の経済規模」ということを意識せざるを得ない。面積の上ではむしろ小さい国であるのに、なぜ日本という国をみんな知っていて、しかもSushiだとかマンガだとか、さらには日本の歴史までも知ってる人が、一般の外国人にここまでいるのかというと、日本の経済的な存在感、経済的プレゼンスの大きさが根本にあると思う。

つまり「日本の豊かな文化、伝統、歴史があまりにも魅力的だから、こちらから何もせずとも、日本の国としての魅力自体が、外国人をおのずと惹きつけた」のではなく、「身の回りに日本製の製品だとか食品だとかがあったり、ニュースで日本のことを聞く機会があったから、ちょっと日本という国に興味を持って、少し調べてみたら、意外に興味深い文化や伝統を持ってる国だった」という順序。

外国に行くと、日本人というだけで、興味を持ってもらえることは多い。そこで妙なナショナリズムや愛国心を感じてしまう日本人(特に若い男性)や、そのような「うれしがらせ」に甘えたり溺れたりする日本人も少なからずいる。

それは必ずしも悪いことではないが、それが「日本人は民族として優れているから、戦後の経済発展を成し遂げた」という類の俗説に結びついた場合には、失笑を禁じ得ない。民族的資質というものだけで、これほどの発展を成し遂げることはどう考えても不可能であり、経済発展の要因は、戦後の日本の人口(つまり若年人口)の多さに求めることの方が、より妥当であろう。

しかしそれだけが、日本とウクライナの豊かさの違いを産んだと考えることは早計である。国民の努力の結果だけが日本の豊かさを築いた、とはとても言えない。

様々な外部要因が複雑に組み合わさって、日本を急激に豊かにして、ウクライナを貧しいままに留めた。

ほとんど偶然の結果のようにそうなった、と思うと、「偶然」とか「運命」とか「政治」というものが、一個人の人生に与える影響力の大きさを感じる。