日本語でしか言えないこと

31/October/2023 in Belgrade

*English ver

櫻井敦司氏の逝去の報から一週間。

曲を聴くことにはまだなにか抵抗がある。


あの日以来、ニュース記事のコメント欄に書かれたさまざまな人の言葉をよく読む。

デビュー時からの35年来のファン、最近ファンになった人、かつてファンだった人、櫻井さんの名だけを耳にしたことがあった人、櫻井さんのことは何も知らなかった人……。

多様な人たちが、それぞれの思いをコメント欄に書き込んでいて、コメント欄はまるで追悼の場のようになっている。

それを目にしていて気がついたのは、どのコメントも最後がかならず「ありがとうございました」で終わっていること。

「ありがとう」という言葉でしか伝えられない、貴く、純粋な気持ちを思う。


「ありがとう」でしか伝えられないもの。

日本語を母語とする日本人の私には、「ありがとう」という言葉からしか感じとることのできない、なにかの存在。

貴重で、尊い感情の存在。


"Thank you"(英語)

"Merci"(フランス語)

"Gracias"(スペイン語)

"Hvala"(セルビア後)

"Дякую"(ウクライナ語)

"Dziękuję"(ポーランド語)

"Спасибо"(ロシア語)

辞書の上では、「ありがとう」を意味するとされているこれらの言葉。

人間が決めたルールの上では、同一の意味と合意されているこれらの言葉。

しかし、ここにはその言語のネイティブスピーカーにしか感得できない感情が必ずある。

櫻井さんへの追悼に寄せられる言葉を見ていて、そんなことに気づかされた。

日本語の美しさと、私にとっては日本語からしか感じ取ることのできない感情の存在。

ありがとう、櫻井さん