小説を読むことの危険

3/March/2018 in Tokyo

「小説を読むことの危険」について触れる前に、その読み方について。

小説を読むというのは、簡単なようでいて、私には時おり非常に難しく感じられます。

小説を読んでいると、書かれた文字を読んでいるだけ、ストーリーをなぞっているだけ、ページをめくっているだけという状態に陥っていて、その小説の世界に入り込めていないことがよくあります。

「読み始めたからには読み終えないと」という生真面目な義務感から読んでいるだけ。

こういう読書体験はどこか時間を浪費にしている感覚も強くて、結局最後のページにまで至っても、別に満足感も達成感もありません。

そうかと思えば、その世界にサラッと入り込めてしまって、スルスルと読み進められる小説もあります。

しかし後者との遭遇率はかなり低く、20冊読んで1冊あるかないかくらいではないでしょうか。

よく「忙しいビジネスマン向けの教養」をうたった本などで、古今東西の名作のあらすじをまとめたりしていますが、実際その「ストーリー」というのは小説においてどれほど重要なのか、最近は疑わしく思っています。

というのは、「小説の醍醐味とは感情の流れを味わうもの」という考えを近年持ち始めたからです。

小説の項が進むごとに、小説の世界でも時は流れ、そして登場人物の感情も移り変わり流れてゆく......。

そのような登場人物の「感情の旅」を念入りに味わえることこそが、小説を読む醍醐味なのではないか。

少なくとも醍醐味の一つ、であることは間違いないでしょう。

さてこのように、自分ではない人たち(=登場人物)の感情を内面から味わえることが小説の楽しい一面であります。

その結果として「人の気持ちがわかるようになる」とか「共感の気持ちが育まれる」とかといったような、人道的で道徳的なメリットも多くあると思います。

それと同時に、私は小説を読むことには「ある危険」も潜んでいると思っています。

それは、小説により「仮想的に味わった感情」でもって、その後の現実を矮小化する危険です。

例えば、ある人がこの現実世界で何らかの出来事に遭遇したとします。

恋人にフラれたとか、友達と喧嘩したとか、宝くじで100万円当てたとか、難関試験に合格したとか、なんでも構いません。

そこで彼は歓喜だとか、絶望だとか、憎しみだとか様々な感情を抱くと思います。

さてここで、彼がかつて読んだ小説の中に同じような場面があって、そこで登場人物がどのように感じていたかを彼は覚えていたとしましょう。

そうすると、彼の感じる感情とは、目の前で起きているその現実の状況に反応して湧き起こったものではなく、かつて読んだ小説の登場人物の感情に影響を受けたものになるのではないでしょうか。

小説を読むうちに、彼の心の中にはある種の「感情のフレーム」ができあがっていて、現実の出来事から沸き起こる心の反応をそのまま味わうのではなく、一旦その「感情のフレーム」のフィルターを通した上で感じるようになってしまい、結果的に矮小化された、広がりを欠いた感情体験しか行えなくなる。

「読書によって現実に先行してもたらされる感情体験」とはいわば「予習」、そしてその後の「現実の体験によってもたらされる感情体験」はその「復習」となってしまい、初めて想起される感情が持つある種の「新鮮さ」「鮮やかさ」はもうそこにはない。

さらにそれは彼自身の「彼100%の感情」というよりかは、他人(=登場人物 or 小説の作者)の影響を受けた、どこか汚濁の混じった感情。

もちろんこれは逆からみると、「感情のフレーム」を通したことにより、自分だけでは見つけられなかった感情を発見できる、ということもありえるわけで、それこそが先述したような「人の気持ちをわかるようになる」といった小説を読むことのメリットにつながるのでしょうけれど。

これは「感情」の領域にとどまらず、「知識」についても同じだと思います。

フランシス・ベーコンが「Knowledge is power(知識は力なり)」と言ったように、「物事を知っている」ということを無条件に「良いこと」と見る向きがありますが、どうも私には「知っている」ことの危険性の方が目に付きます。

つまり先行する知識により、その後の現実が、現実の体験が、矮小化される危険です。

現実に先立つ「認識」であったり、「感情」であったり、「知識」であったりというのは、その人の実際の体験に由来するものではないという点で、そもそもいかがわしいものです。

もちろん、一人の人間が生きている間に、この世のすべての事柄を体験することは現実的には不可能なので、自分以外にソースを持たざるを得ない私たちの「認識」や「感情」の大部分は、根本的にいかがわしいものだとも言えますが。

とはいえ、ここまで至ると、果たして人間に「純粋経験(西田幾多郎)」といったものは可能なのか、という別の疑問が湧いてきますね。