第2言語の危険

13/August/2018 in Warsaw

自分の第2言語は英語であるが、第2言語で考えたり、話したり、聞いたり、人とコミュニケートしたりする危険を時折り感じる。

言うなれば、第2言語で人と会話し、また思考し、内省しということを長年やっていると、間違いなく感情の貧困に陥るであろう危険。

これは英語を話せるようになって随分経ったある日、世界のどこかで起きた凄惨な事件、または悲劇も、それが英語で書かれ伝えられると、その「悲しみ」が幾分、時にはかなり減ぜられたように感じたことに始まる。

その時に振り返ってみると、このように、母語ではない言語での感情伝達/情報伝達における減耗作用についての兆候は以前からあった。

それは端的にいうと、「英語の方が話しやすい」のである。

私の英語能力はあらゆる意味で完璧からは程遠く、また今だに英語でどのように伝えるべきかわからない事柄も多い。

それでも「英語の方が話しやすい」のである。

日本人との日本語でのコミュニケーションよりも、日本人との英語のコミュニケーションの方が、滑らかに事が進むことは多い。

当初これは、日本語と英語の役割、機能、構造の違い、そして様式を重視する文化的な価値観に由来するものだと考えていた。

そして今もある程度はそう思っている。

わかりやすい例で言えば、英語と比して日本語には圧倒的に尊敬表現、謙譲表現等の、相手との距離を強く意識させる表現が多いために、日本語で何かを伝える時には、英語以上に「言葉を選ぶ」必要性がある。

また考慮すべき事柄も非常に多い。

曰く、相手の年齢、社会的地位、性別、付き合いの年数、また会話をしている環境、会話内容、その他諸々。

しかし英語においては、これらの苦労はかなりの程度免除されるため、それが英語で話す気楽さ、「英語の方が話しやすい」という感覚につながっているのだと私は思っていた。

しかし、徐々に疑わしくなってきたのは、私が「I’m upset」とか「I’m disappointed」とか「I’m excited」とかの感情表現を行なっている時、果たして私の感情は正しくこれらの言葉によって表されているのかということである。

また自分の感情表現にとどまらず、相手が英語で感情表現を行った時、私はそれを正しく受け止められているのかということも疑わしくなってきた。

このような認識に至ったのには、具体的な体験がある。

オランダで働いていたある日、日本人の(身分上は)上司から、ささいなことで叱責を受けた。

それは私の気分を非常に滅入らせたが、その後別の件でオランダ人の上司に英語で叱責を受けた時には、そのような感情的ダメージは非常に少なく、不思議に思った。

日本人の怒り方というのは、たいてい粘着質のどうしようもないやり方であるが、それ以上に私は、叱責時の言語の効果に興味を惹かれた。

なぜこうも日本語だと心理的なダメージを受けるのか。

なぜ英語では、叱責というものに必須の「ある重さ」が感じられないのか。

可能性は一つしかない。

第2言語を使っている時、「私」と「言葉」、もしくは「私の心」と「言葉」の間には、距離があるのだ。

対して母語の場合には、この距離は限りなく小さい。

否、「心=言葉」と言ってもよいほど、限りなく接近しているのかもしれない。

「心」と「言葉」の間の埋めがたき懸隔のために、第2言語で伝えられる事柄には、あらゆる感情表現に必須の「重さ」が除去され、それがある種の緩衝材となり、ダイレクトに感情が流れ込んでくるのを、またはこちらからダイレクトに感情を流し込むのを、妨げている。

「感情表現に必須の重さ」、これは「感情表現のまことらしさ」と言い換えてもいいのかもしれない。

これは良い面を見れば、前述した様に、人とのコミュニケーションを軽やかに、滑らかにする効果がある。

私も日々この恩恵を受けていて、初対面の人であっても、言語が英語であれば、非常に会話を滑らかに進められ、気兼ねなく軽口もたたける。

しかしこれを少し視点を変えて考えてみると、このような環境に長くいて、このようなコミュニケーション方法を長く続け、また自分の頭の中の思考もそのように行なっていると、いずれは感情的な貧困に陥るような危惧も感ずるのである。

「英語で、つまり母語以外の言語で伝えられた事柄は、それがどんな心張り裂けるような悲劇であっても、その悲しみのかなりの部分が減ぜられて感じられる。」

言葉が感情伝達の唯一の方法ではもちろんなく、また言葉で我々の感情全てを表せると考えることも傲慢であるが、しかし例えば、第2言語でのコミュニケーションを長年行なっているinternationalなカップルなどは、私にはいかなる状態にあるのかと時折思われる。

彼ら彼女らは、何か核心的なことを毎回伝達できずにいることを、もしくは「理解できた」と思っていることが実は「理解できた気になってる」に過ぎないことに、意識的でいるのだろうか。

もしくは実は、人間同士がうまく付き合っていくためには、核心的な事柄の伝達など斟酌する必要はなく、「理解できた気になってる」というコミュニケーションで十分なのかもしれない。