「私」と「世界」とを対立構造に置く認識

21/August/2018 in Warsaw

歳を重ねるほどに、自分の気質に合う価値観、美意識、Sense of beautyが次第に明らかになってくるのを感ずる。

自分の気質というのは基本的には変えられないものであり、そこになるべく合う美意識を見つけ、それに沿って生きていくことが人間の生き方の一つだと私には思われる。

歳を重ね、地金が現れてくると、「私」の「世界」に対する要求も厳しくなり、潔癖化していくように感ずる。

私の中で「要求の潔癖化」はいくつかのテーマを内包しているが、まずはその一つをここでは記すことにする。 なお、「価値観」という言葉より「美意識」という言葉の方が、私にはしっくりくるので、以下「美意識」で統一する。


私は今、ワルシャワに住んでいるが、ヨーロッパでの滞在もこれで通算5年を超える。

ヨーロッパにやってきた日本の大学生や20歳前後の若者が、ブログなどで「日本人の気難しさ」「日本社会の息苦しさ」等と対比して、「欧州人の肩肘はらぬ様子」「人間関係の風通しのよさ」等を喧伝しているのをよく見かける。

私もヨーロッパにやって来た当初はそう思っていた。

日本社会のあの閉塞感、日本人のあのみみっちく、卑しい小物感には大きな不満を感じていた。

しかし年数が経つと、こういうヨーロピアンの人間関係や、態度のラフさに、何か自分とは決定的に違うという違和感を徐々に感ずるようになってきた。

ヨーロピアンの持つ美意識は、いくら自分の内を探しても自分の中には存在しないものであることがわかってきたのである。

つまり、私は「異なる美意識を拒絶したり、戯れたり、羨んだりする期間」を過ぎ、「自分に合う美意識は何か?」を選ぶというステージに入ったのだと思う。

これは「自分とは異なる美意識を持って生きている人間に囲まれて生きることに、ある種の疲れを感じ始めた」「日々の生活の中で絶えず、小さな差異を意識させられることに疲れを覚えた」とも言えるのかもしれない。

そうなると、日本人としての私は「日本人の美意識」といったものを選ぶのが、一等自然のことのように思われた。

私自身が、日本で、日本人の両親から生まれ、日本で教育を受け、20年以上日本で住み......、なにより私自身のSelf-identityが「日本人」であることを考えれば、ヨーロピアンに「相容れぬもの」を感じ取った時、「日本人なら相入れる」という結論に傾きがちであることは自然である。

そうして、ヨーロピアンの言動、振る舞いに、ある微妙な差異を感じるたび、「日本人であれば......」という一節から始まる文句を浮かべ、日本人を理想化するのが、いつのまにか私の中で卑しい習わしとなっていた。

しかし段々、このような「自分の生まれ育った場所の人々こそ、自分と一番近い美意識をもっているはずだ」という考えも疑わしくなってきた。

相手が日本人であっても、私はそこに「自分とは相容れぬもの」を、すぐに、たやすく、いやしくも嗅ぎ出してくる妙な自信があるのである。

ここまでくると結論は一つしかない。

問題の要は「相手がヨーロピアンかどうか」でも「相手が日本人かどうか」でもなく、「自分が相手を受け入れられるかどうか」、つまり「自分の美意識が、相手の美意識を受け入れられるかどうか」という点にあったのだ。

対立の構造は「日本人」と「ヨーロピアン」ではなく、「自分」と「他者」、すなわち「私」と「世界」であったのだ。

「私」がどのように「世界」を受け入れるか。

「私」がどのように「世界」と親和するか。


しかし思うだに、このような考えは、「私」と「世界」とを対立構造に置く非常に恐ろしい認識のように感ずる。

このような認識は、人をたやすく深い孤独に導くであろう。