高野悦子「二十歳の原点」を読むからっぽの自分

16/January/2023 in Tokyo

*English ver

高野悦子の「二十歳の原点」をここ数日読んでいた。

雨が一昨日より降っており、この本を読むには東京の冬のあの冴え切った空とまぶしい太陽よりも、憂鬱なくもり空こそふさわしいと思える。

この本を最初に読んだのは私が21歳のころだったが、それ以来、「心の友」とまではいかずとも忘れられない一冊になっている。今後も折りに触れては読み返すであろう。

初読の時もそうであったが、自分自身と誠実に向き合った彼女の姿勢が、やはりもっとも心を打たれる。

そして自分自身に誠実に生きた人たち・・・そう、例えば三島由紀夫・・・は死を選ぶこと、つまり「誠実に生きるとは自殺することにつながる」という私の考えの大きな一端は、高野悦子にあることを思い出した。


今回読んでみて目を引いたのは、彼女が自分をからっぽだと感じていることだった。

自分に自信をもたぬという生来の隙間に、アットいう間に何かが入りこんでで、どうしようもなくガンジがらめにしてしまう。自分を信じることなくして一体何ができるのか

何もない空っぽだと感じていること自体一つの大切な私の感情であるが、それに浸りこまずに空っぽゆえに行動して己を高めていかなくてはならぬのだ

私は臆病者だ。与えられた環境の中で生きていく人間である。私は自分に自信をもてない人間である。臆病者であることが、いいのかわからない。ただ臆病であることを意識すると、自分が卑小でつまらない人間に思えてくるのだ。そういうときはたまらなくなる。(3月27日)

(*以上「二十歳の原点序章」)

どうしてこう、おどおどして弱気で、何事においても自信がないのだろう。私には生活の強さというものがない(「二十歳の原点序章」3月25日)

私は一体若人なのだろうかと思う。なんにもやる気がせず、うちひしがれてしまっているのだ。(「二十歳の原点序章」5月23日)

毎日毎日がむなしい気持ちである。今日も何もせずに過ごしたのか・・・・・。(「二十歳の原点序章」8月19日)

人と一緒にいるときはいつもおどおどしている、通りすがりの人とすれちがうときでさえも何かを気にかけおちつかない。傲慢さと卑屈が同居している。私の意志の弱いこと自信のないことといったら天下一品である。どうということはない。なまけもので自尊心過多なのである。(「二十歳の原点序章」9月11日)

下宿から一歩踏み出すと意識はかたばる。電車の中にもホームにもキャンパスにも、人。人、人だらけであるから。私は人が怖い。会う人会う人が、私の弱点を見すえているようなのである。いつからこんななげやりで、陰険になったのだろうか。私はおっちょこちょいで、朗らな女の子ではなかったのか。私の心はこのごろではいつでも沈んでいる。往来を歩いていて、私と同じようなおどおどした臆病なまなざしをいくつか見つけ安心した。私のような人間が他にもおるんだと。生きることに強い欲望をもたず、かといって自殺する気もなく、波にゆられて小さな手をバチャバチャさせて生きていく人間が。生きていくよろこび、生きる価値あるいは自殺の意義と価値を見出さなくては。(「二十歳の原点序章」9月16日)


思い返してみれば、20歳前後のころは自分もそう思っていた。

「個性」「感性」「想像力」なんて自分にはないと思ってた。

人と違うものなんて自分にはないと思ってた。

唯一無二のものなんて自分にはないと思ってた。

だから表現をしている人たち、「アーティスト」とか「芸術家」とかをうらやんでいた。

ロンドンに留学したあとも、自分に自信はなかったと思う。

「英語が話せる」という客観的にわかりやすいスキルはあったけれど、それで自分に自信がついたのかというと、そうではなかった。

自分には語るに値するストーリ、つまり自分の人生は十分に個性的で、自分自身も十分に個性的だと信じられるようになったのは、アムステルダムから東京に帰った後からだと思う。