日本人の礼儀正しさ

27/March/2023 in Tokyo

無人レジがあると、必ずそちらを選ぶ。

時に意地でも無人レジを選ぶ。

ほぼ毎日行くコンビニには右手に有人レジ、左手に無人レジがあり、時折り両方が同時にあいて、有人レジの方から「次のお客さまどうぞ」と声の掛かることがある。

私はその声を無視してでも無人レジを選ぶ。


コンビニのレジでは特に「人間ではなくモノ」として扱われる。

効率を最優先にすることが生む当然の副作用ではあるが、不快であることに変わりはない。

無人レジの場合には機械相手なのでこの不快がない。

さらに私が有人レジを避けるのは、店員の日本人の「礼儀正しさの演技」に虫唾が走るからである。

普段よりも数オクターブ高い声

ペコペコペコペコしたおじぎ

「お支払いはどうされますか?」という質問

作り笑い

丁寧ぶった態度

下手に出る卑しさ

許しを乞うような目つき


日本人の示すある種の礼儀正しさが、この国で私をもっともいらだたせる。

日本人の礼儀正しさの大半は、「礼儀正しくあることが想定されているからしている」という演技の結果である。

作り物なのである。

独りよがりなのである。

他者のための礼儀正しさではなく、すべては自分のため、すべては保身のためなのである。

そして「礼儀正しい」はひとつの例に過ぎず、日本人の生活は内面と外面の不一致で溢れかえっている。

だからぎこちない。だからオドオドしている。だから傲慢に見える。

そんな虚偽に満ちた態度で接せられるくらいなら、怒っているなら怒った身振りで、悲しいなら泣いた顔で接客された方が私はよっぽど快適である。


しかし同時に日本において、私は最上級の礼儀正しさを見ることがある。

それは日本にしかないと感じられる。

さらにそれはおそらく、日本人にしか見つけられず、日本人にしか深く感じられない種類の礼儀正しさなのかもしれない。

たとえば、自動ドアで向こうから来た人を先に通したときに頭をすこし下げられること。

列の順番をゆずったときに身振りで謝意を示されること。

私がなにかをしたことを相手も気づいており、そこに私が何らかの反応を期待していることも相手は気がついている。

期待した反応を、期待通りの適度さで返されること。

こういった日常の場面の「礼儀正しさ」は、それが想定されたものでも、演技の要請をされたものでもなく、さらにまったくの無意識に、瞬間的に表れるものであるので、実に真実味がある。

こういったいわば微妙な「阿吽の呼吸」は日本でしか見られず、そして日本人同士でしか感得できないものに思える。