点と線:作風の変遷を見るよろこび

7/May/2024 in Tokyo

私は、ある限られた数のアーティストの作品を繰りかえし繰りかえし楽しむことを好む。

そういう中で見つけた悦びのひとつは、アーティストの変遷を見ることである。

たとえば若いデビュー時の作品と、それから10年の後に作られた作品。

作風やテーマは当然変わっており、その変化は明らかである。

そして多くの人はその変化を認めるだけで満足する。

しかしそのアーティストに深い関心を持ち、長い間そのあとを追ってきた者には、そのふたつの作品をつなぐ橋が明瞭に見える時がある。

月日が流れても変わらない、そのアーティストの根底部分である。

やや誇張していえば、変わらない美意識といってもいい。

表面的には変わってきた作風の変遷の中から、その人の変わらぬコアの部分が見えた瞬間。

長い間にわたって、ある特定のアーティストを好きでいると味わえる特別な瞬間である。


作風の変遷、あるいはアーティストの変化の様を見ることが、なぜこういう妙な興奮を運んでくるのか、私は長い間うまく説明できなかった。

しかし先日、ふとこれは点と点とつながって線になるあの感覚なのではなかろうかと思った。

まったく関係がないと思っていたふたつのものがある日突然つながり、それまで見えることのなかった橋が眼前に現れ、その向こうの景色すらも新しい意味をもって立ちのぼってくるあの瞬間。

思わず「ああ!」と膝を打ちたくなるあの感覚のことである。

時期の異なるふたつの作品、このふたつの点のつながりが見えたときの胸の昂まりとは、霧が晴れて現れた橋が突然巻き起こした突風をほほに浴びる感覚である。


勉強をしているときに味わう点と点がつながる感覚は、私たちにもっとも馴染みのあるものだろう。

しかし単なる知識と知識がつながった時のあの感覚と、私がここで言わんとしている、作風の変遷を見てそこに「点」、つまりアーティストの「変わらぬところ」を見つけたときの感覚とを比べたとき、後者の方がはるかに深い感動を運んでくるのは確かだと思われる。

それはおそらく時間という要素の有無であろう。

作品の変化は、そのアーティストの人間としての変化と不可分である。

アーティストの人間としての成熟。

つまり時間が関わってくるのである。
つまり歴史が関わってくるのである。

このような「線」は、単なるふたつの知識の間の間に見える細いモノクロの線ではなく、ずっしりと太く、そして清濁まざりに混ざった混沌の奥深い色に塗れているのである。