by axxxm
30/May/2024 in Tokyo
今月のはじめ、小説「かなしみよ こんにちは」を読んでいた。読み終わるのが惜しくて、そろりそろり読んでいた。
最後のページをめくると、「ああ、いい作品に出会えてよかったなあ」という満ち足りた気持ちが湧いてきた。そしていい作品と出会ったときには、自分が好きになれる作品と出会えたときには、よくこういう気持ちが湧いてくることに気がついた。「生きていてよかった」という気持ち。
……しかしこう書いてみて私自身、不思議に思う。「生きていてよかった」なんていう言葉は、私からかなり離れたところにある言葉のはずだ。むしろ、私はいつもこの言葉から逃げまわっているといっていい、無意識に。しかしそんな言葉が私の心をぴたりと捕え、そして捕えられたことに別に心理的抵抗を覚えない稀な瞬間。それがいい作品と出会えたときである。
いい人に出会えたときにも、魅力的な女性とアルコール片手にたのしい話ができたときにも、私は思わず「生きていてよかった」と感じる。いい作品との出会いは、これと同じ感情を運んでくるようだ。
2024年上半期に出会った作品のなかで、「かなしみよ こんにちは」がもっとも強い感情を運んできたが、他にもいくつか印象的な出会いがあったので簡単にふりかえってみる。
木村伊兵衛「浅草寺」
何を祈っているのであろうか。「敬虔な」という言葉以外に、「敬虔な祈り」という名以外に、ふさわしいものがない姿。
若い女、着物、冬、豪奢な髪飾り、結った黒髪、くびすじ、横顔、日本人。
上村松園「花がたみ」
京都滞在中にポストカードで見かけた妖しい絵。現代の絵かと思いきや1914年のもので、男性による美人画かと思いきや女性の画家による作品。
百合の花束
これは人の手による「作品」ではないが、一緒に過ごした一ヶ月間、小さな楽しみと喜びを私の生活に毎日加えてくれた。
百合はかならず白である。
清春「ETERNAL」
ここで挙げている作品の中でこれは別格である。「生きていてよかった」とは次元の異なる感情を運んでくる作品。
私の一部になっているあの声、あのメロディ、あの詩、そしてあの姿。
出会ってから21年間、ずっと私の中で揺るがず、そしてこれからも決して揺るがない人。
フランソワーズ・サガン「かなしみよ こんにちは」
この作品はこちらにくわしく書いた。
有村竜太朗「デも/demo」
「かなしみよ こんにちは」を読みながら聞いていたアルバム。曲を聴いているときにはわからなかったが、歌詞を見ると言葉数が非常に多い。現代詩のような雰囲気が漂う。
33分で聴き終えられる短さは、「手にひらに納まる『美しい小宇宙』」といったよう。
このアルバムには続編がある。入手した。しかしまだ聴いていない。何度も何度も聞いて、しまいには日常生活のバックグランド・ミュージックと化す「消費する聞き方」ではなく、作品世界に入り込める適切な時と場所を待って、大切に聴きたい。そう思えるアルバムと出会うのは非常に稀である。