by axxxm
17/February/2023 in Tokyo
2023年の1月終わりから2週間ほど京都に滞在した。京都は日本国内の街で、かつすでに何度も訪ねたことのある場所でありながら、ここまで深い印象を残すとはまったく予想していないことであった。
京都について最初に注意を引かれたのがアクセントだった。日曜日の早朝の電車には、部活の練習に向かうと思しき、中学生くらいの女の子たちが数人いた。そこから聞こえてくる言葉には確かにアクセントがあって、私はふと懐かしい気持ちがした。外国に住み始める前の大学時代にはよく国内旅行をしていたが、東京から地方へ行くたび、最初に「旅に出た」という感を運んでくるのが、地元の人の話す言葉を耳にした時だったのを思い出したからである。
西日本のアクセントはやさしく響く。「ありがとう」の代わりに「おおきに」というのには、くだけたところがあって、その距離の近さが親しみやすさを運んでくる。京都人は「ありがとう」までしか言わない。東京人のように「ありがとうございます」とは決して言わない。この過剰に丁寧で、よそよそしさに満ちた言葉は使わないのである。しかも京都人のいう「ありがとう」にもアクセントがついているので、それが柔らかく心地よく響いてくる。
老舗料亭の「とり安」では、ランチにもかかわらず接客のすばらしさが際立っていた。細かな、しかしうるさくない気遣いが心地よい。「そちらのおにいさんはから揚げ丼ねえ」といった親しみやすさが、自然にふりまかれていた。注文した丼は東京の味に慣れた私にはややうすく感じられたが、丁寧に作られていることは一目瞭然で、店内のやや古ぼけたさまも雰囲気があった。
かつて国内旅行を精力的にしていたころは、地方に行くたび東京との違いが感じられて、「自分はここに属していない」という感覚に襲われていた。その後、外国という文化的歴史的、そして人種的に距離のある環境に入って年単位で生活し、そこで一層強烈な無所属の感覚を味わったので、国内旅行では以前のように精神的距離を味わうことはないと思っていた。そして実際、以前よりもその感覚は薄まったのは確かである。京都であろうが香川であろうが、日本という国の一部であり、私と文化的歴史的人種的、そして言語を共有している人たちがいる土地なのである。その親和の感覚は否定できないものがある。
しかしながら、旅行者であることにはいつも何か気恥ずかしさと後ろめたさがある。招かれざる客、つまりその土地には決して馴染むことがないアウトサイダーという趣がある。京都において、私は外見上はこのアウトサイダーであるという事実を隠すことができる。私は日本人であり、見た目の上ではこの街で生活している人と同じだからである。しかし一旦口を開けば、私の東京アクセントによって、私が地元の人間ではなく、アウトサイダーであるという事実が露呈してしまう。飲食店などで一定程度年齢が上の店員と言葉のやりとりがあるとき、私はある種の気恥ずかしさを覚えた。
山に囲まれているからか、京都の天気は変わりやすい。銀閣寺近く、東山のあたりを歩いていたときのこと、雲空から霧雨が降り始め、それが粒の雨に変わっても、五分ほど経つと止んで青空が広がった。しかし北山の方を見ると、山には霧のような、雨雲のようなものが大きくかかり、あちらの天気はこことは違うことがわかる。このような落ち着かない天気は、実にヨーロッパ的だった。そしてヨーロッパといえば、京都を流れる川もヨーロッパを思い起こさせた。
京都滞在でもっとも印象に残ったのはこの川の存在である。市中に川が流れ、岸には自然な雰囲気を残した遊歩道があり、カップルや友達、あるいはひとりでも、そこで時間を過ごしている人たちを見ると、川というのはコミュニティの一部であるというごく単純な事実を思いさせてくれる。
東京に川の存在はない。墨田川、荒川、多摩川といった川は存在しているが、それが市民の生活の一部にはなっていない。渋谷や新宿といった場所にいて、「ちょっと川べりを歩こうか」と江戸川までわざわざ電車に乗って向かう人はいないのである。
私の住んでいたヨーロッパの街には川が必ず流れていたので、今では川のない街に窒息感を覚える。三条大橋から眺める鴨川は、別に美しいものでも人目を引くものでもないが、川がこんなにも近くにあり、いつでも会うことができる、いつでも川の上に大きく開いた景色を眺められるというのは、ここに住む人々のこころに余裕をもたらすであろう。
川といえば、宇治川も忘れられない。15年前にも宇治を訪ねているが、名前だけですでに偉大な建物であることがわかる平等院鳳凰堂を訪ねたことしか覚えていない。宇治といえば源氏物語とつながっていることも、今回訪ねるまで忘れていた。しかし宇治川にかかる橋のたもとにある紫式部の像を見て、今回の旅のいろいろなことが突然つながる感覚を覚えた。あとで触れるが、今回の旅を特徴づけていた谷崎潤一郎が、源氏物語を現代語訳しているからである。旅に出るたび、「課題図書」のような読むべき本が私の前には現れるが、谷崎訳源氏は間違いなく今回の旅の課題図書だった。
そういうことがあってもなくても、宇治川を眺めると、この川の流れがあったからこそこの地が文化的に栄えたことを実感できる。ごうごうといきおいよく流れる水が魅力的なのは、生命力を感じさせるからである。ふたつの山から流れてきた水が合流し、より豊かな流れとなって下っていくさまを見ると、この川は宇治の街に経済的なものをもたらしたのではなく、ひたすら文化的なものに奉仕してきたとわかる。
川幅は広く、水の量は豊かで、どっしりと流れている。河岸は整えられているが、多摩川のような醜く味気のないコンクリート作りではなく、小さな石をあつめた玉石張りで、人工的なにおいは薄い。そこには人がちらほらと座り、冬の午後の暖かい日差しを楽しんでいる。私が訪ねたのは天気のいい日曜日で、京都市内は人で溢れかえっているのに、南に30分ほど下ったこの場所はその喧騒とうっとおしさを免れており、この文化を育んだ川の美しさをこころおきなく味わえたのである。
ところで「宇治」とは「憂し」、英語でいえばmelancholyやsorrowというものに語源があるというのも、私がこの街に好ましい印象を抱いた理由の一つである。
旅行中は、神社にペットポトルを持ってきては水をくんで帰る人を多く見た。京都御所横の梨木神社、嵐山近くの松尾大社、伏見の御香宮神社、大阪に入ったところになるが水無瀬神宮などにおいてである。くんできた水をそのまま飲んで大丈夫なのか私には不明だったので、口をつけることはなかったが、水が生活の一部、いや私たちの身体の一部であるという当然の事実を、この街の人たちは知っているのだと思われた。蛇口をひねる時にしか水と直接的な接点のない東京の人間にとっては、水を神社にくみに来る人たちは新鮮な眺めだった。川といいい水といい、訪ねる前には考えもしなかったが、京都が非常に水の豊かな場所だということを深く分かったのは大きな収穫だった。
もっとも日本的なものが詰まった場所として知られる街が、世界中から押し寄せる観光客によって、実はもっとも多国籍であるというのは皮肉である。しかし、私が京都ですぐに居心地のよさを覚えた理由のひとつもここにあるのは確かだった。すれ違う顔が多様、聞こえてくる言葉が多様という多国籍の環境である。長い外国生活を経た今の私にとって、日本人だけの環境には不自然なものを覚える。
数の面で見れば、おそらく東京の方が観光・定住の外国人は多いであろうが、京都はサイズがはるかに小さいので、彼らの存在が際立って見える。また東京のようにいかにもビジネス然とした、真面目すぎる雰囲気を漂わせていないのも私にはよかった。平日の昼間から、街のなかをうろうろしているその気楽さ、その無責任さは私の人生に通じるものがあった。
そうはいっても、外国人の存在に地元の人はいい顔をしていないであろうと思われる場面にも何度か出くわした。たとえばバスの中で、二人がけの席を一人で独占しながら、すぐ後ろの連れの友達と話している外国人である。私が目にしたのは、アメリカ英語を話しながらもいくらか日本語が読める外国人だったので、おそらく京都に住んでいるアメリカ人なのであろう。完全な観光客ではなく、地元の文化をいくらか知っていてよさそうな外国人がそういう振る舞いをしているところに、地元の人の不快が読み取れる気がした。
四条大橋では外国人がよく酒を飲んでいた。すぐ真横にコンビニがあるので、手軽に酒が手に入り、さらに川辺が近く開放感もある格好の場所だからであろう。昼間はホームレスらしき人たちが飯を食っているが、夕方になると外国人が酒を飲む溜まり場になっていた。酒を飲んでいる外国人は、街中でも円山公園でも多く目にしたが、コロナの影響も完全に終わっておらず、さらに二月というもっとも観光客の少ないシーズンであっても、これだけ外国人がいて、さらに昼から酒を飲んでいるのを見ると、春から秋にかけての観光シーズンはどれだけ酷い状況になるのかと思われた。
イタリアのローマを数年前に訪ねた際、圧倒される感覚に襲われた。街のあらゆるものがそれまでの歴史を主張しているのである。街についての知識が何もなくとも、あの積み重なった歴史の堆積を感じずにいることは不可能であろう。3日間の短い滞在だったが、それだけでも腹がいっぱいになるほど濃厚な街であった。
京都について1週間ほどした時に訪ねた平等院鳳凰堂内の博物館で、これと似たような感覚がやって来た。しかしそれはローマでのように「圧倒される感覚」と違い、もっと静かで穏やかなものだった。そしてローマのように、着いてから1、2日ですぐに襲ってくるのではなく、1週間も経ってようやく来たのが、日本あるいはアジアらしく思われた。そのわかりにくさ、その自己主張の薄さこそ日本的だと思われた。
京都を歩いていると、寺や神社にすぐにぶつかる。最初はそれをありがたがっていたが、しばらく経つと、いったいこれほどの数の神社仏閣が必要なのかと疑問が湧いて来た。これらが宗教施設であることを考えると、かつての日本人はどれだけ熱狂的に救いを求めていたのかと思ったのである。しかし同時に、これだけの数が残っている京都は、いまもこの国の文化の集積地であると認めないわけにはいかない。
私がそれを実感したのは節分の日だった。子供の時分から節分には家で豆まきをしていたが、それは決して大きな行事ではなく、5分もしないで終わる行為に過ぎなかった。しかし節分の日、京都では多くの神社で大々的なイベントが行われていた。神社のまわりは紅白の幕で覆われ、境内には焼きそばや焼き団子の出店が出、伝統衣装をまとった神官が木魚を叩いたり、火をくべたりしている。私の訪ねた聖護院では甘酒を配っており、地域の人が多く集っていた。節分が実はこんなに大規模なイベントだというのを見ると、京都は日本文化の中心である感が一層強くなった。
今回京都へ導いた遠い精神的な理由は高野悦子だった。彼女の残した『二十歳の原点』を10年以上前に読んで以来、この日記を京都の地で読みたいと思っていたのである。そのため訪ねる場所も高野悦子ゆかりの場所となった。中華料理屋の珉珉、松尾大社、京都御所などである。『二十歳の原点』がなかったら、訪ねることはなかったか、あるいは訪ねてもたいして思うことなく通り過ぎていたであろう。
例えば日記には、「京都御所で時間をつぶした」という記述が何度か出てくる。今回はじめて京都御所を訪ねてみて、それが無料で解放されていること、そしてここはたしかに大学生が時間つぶしに散歩するには最適な場所であるのがわかり、こんな広く開放感にあふれる場所が市内にあることを羨ましく思った。
日記には、寺前通りの古本屋を訪ねるという記述がある。50年も経てば古本屋も淘汰されていると思いきや、寺前通りには今も古本屋がいくつも残っていた。古本屋だけでなく、コーヒー豆の焙煎所や時計屋、和菓子屋といった、昭和時代の前から延々と続いているような個人営業の店、そして現代的なセレクトショップのような家具屋も見えたりと、新旧入り混じる京都の底力が表れている場所だった。
日記には「山に登りたい」という高野悦子の山に対する記述が何度か出てくる。これは私にはよくわからない心情であったが、京都の街を歩いていると、山にあこがれる気持ちがわかった気がした。市内のいたるところから山が見え、見る時間帯によって霧がかかったり雪がのったり、あるいは日の当たり具合によって深い青色だったり神秘的な緑色だったりするその様子は、人のこころを魅了するのに十分な条件が備わっていた。
そして必ず訪ねなければいけなかったのは、彼女の自殺した天神通りの踏み切りだった。ここにはかつてJRの線路が地面を走っていて踏み切りとなっていたが、今では高架化されているので、一見すれば線路が上にかかる単なる一般道である。 6月の彼女の命日には花を捧げにくる人もいるというので、もしかしたら私の訪ねた二月の、なんの関係のない日にも奇特な人が添え物でもしているかと思ったが、何もなかった。
景色はまったく変わってしまったが、54年前の6月、電車に飛び込む前にこの道を深夜にふらふらと歩いていったのである。一体どんな気持ちで彼女は歩いて行ったのだろうかと思うが、答えのあることではなく、私も答えを求めていない。彼女の心境を思い浮かべるその余地、その余白の方が私にとっては大切に思えた。
さて高野悦子とともに、今回の京都旅行で私の中で色濃くあったのは谷崎潤一郎である。銀閣寺近くの法然院にある谷崎の墓も、必ず訪ねておきたい場所であったが、実際に行ってみて印象に残ったのは、写真で何度も見ていた墓ではなく、そこにいた清掃員の男性だった。
法然院に通じる参道の手前、山の斜面に墓のならぶ一画がある。そんなに大きな区画ではないが、ざっと見て50基ほどは石碑がある。どれが谷崎の墓なのだろかと思ったとき、近くで腰を下ろしている清掃員の男性に気がついた。65歳くらい、青の作業着を着、近くの地面にはホウキとごみ取りが置かれている。一休みをしていたらしく、墓を区切る外縁部分に座っていたが、印象深かったのは、彼がそこで本を読んでいることだった。
平日の夕方近く、雪が軽くまったり、陽の光がさっと差しこんだりと、落ちつかない天気の日の、人気のない寺院にある小さな墓地の掃除の一休み。そこでしていることが、現代人のようなスマートフォンいじりではなく読書というのが、実に昭和的で、彼の年齢にも、仕事にも、言葉のなまりにも、そして京都という場所にもよく合っていた。
谷崎の墓の場所を問うと、本を開いたまま地面に裏向きに置いて説明してくれた。視線を下に向けて、表紙をこちらに向けている本をちらりと見る。一瞬谷崎の本かと思ったが、ミステリー小説のような、三文小説といって差し支えないような、ゴテゴテしたイラストが表紙の本だった。それもこの全体の雰囲気によく合っていた。
京都には谷崎の住んでいた場所がいくつかあるが、そのうちの3つを訪ねた。ひとつは下鴨神社の近くにある「後の潺湲亭」とも呼ばれる家である。「潺湲」とは水の流れる様子や音を意味するが、下鴨神社の外縁に沿って家に向かっていると、突然さらさらと、冷ややかな水の流れる音が聞こえて来た。下鴨神社へも流れ込んでいる水だった。家を見たあとは下鴨神社にも行ったが、境内にも水が流れていた。水があると、それがどんなに小さな流れであっても広がりを感じさせる。幽然とした森の山から流れ出て、いずれ大海へとつながっていくというイメージを喚起するためであろう。
大阪との県境の山崎にあるうどん屋「かぎ卯」も訪ねた。ここに行く予定はなかったが、旅行に持って来ていた谷崎の小説『蘆刈』に出てくるうどんが実在していると偶然知ったので足を伸ばした。
「・・・・・もとより気の利いた料理屋などのある町でないのは分っていたから一時のしのぎに体をぬくめさえすればいいのでとある饂飩屋(うどんや)の灯を見つけて酒を二合ばかり飲み狐(きつね)うどんを二杯たべて出がけにもう一本正宗(まさむね)の罎(びん)を熱燗(あつかん)につけさせたのを手にさげながら饂飩屋の亭主がおしえてくれた渡し場へ出る道というのを川原(かわら)の方へ下って行った。」―『蘆刈』
このうどんを食べる場面は初読の時から妙に印象に残っていた。具体的な記述はないが、暖簾のかかった、平屋づくり、しなびたうどん屋というイメージが浮かんだのと、月を見るためにひとりでやってきてはうどんをすするというのが妙に風情あるものに思えたからである。また小説では「うどん」が漢字表記となっており、ここではじめてうどんの漢字表記を知ったことも理由の一端である。
「かぎ卯」では作中通りきつねうどんを頼んだ。谷崎本人だと思われる作中の主人公と同じことができればいいので、味にはたいして期待はしておらず、七五〇円という小さな町のきつねうどんにしては割高な値段も気にならなかった。注文して3分ほどで出て来たので、麺は茹でたてではないのがわかった。予想通り麺は柔らかく、また細くあったのは私好みではなかった。一方でダシはよく、上にのったきつねはぶ厚く味がよくしみていた。ここでも、なまりのある言葉を話す店員の女性と言葉を交わす時、私は気恥ずかしさを覚えた。単なる観光客であるというだけだけでなく、谷崎の小説を読んでやって来たという、自分の動機まで見透かされたような気恥ずかしさだった。
うどんを食べたあと、作中で出てくる、主人公が渡し船にのった河原へと向かった。ここは桂川、宇治川、木津川の合流地点でかつては雄大な景色が見られたことは想像がつく。しかし河岸へ行って見えたのは、よく管理されていない工事現場のような光景だった。草は伸び放題で、その下はコンクリートでところ狭しと塗り固められている。地図にあった「山崎の渡し跡」を手がかりに行くが、その石碑も草の伸び切る中でぽつんと立っているだけであった。
3つの川の中で一番手前にある桂川へ近づく。水の流れは淀み、コンクリート仕立ての排水口からはにごった水が流れ込んでいて、そこは栄養に富んでいるからなのか、見たこともないほど巨大なコイが数匹見えた。あたりには小さな虫が無数に飛んでおり、時折りニュースで見かける遺棄された遺体というものが見つかるのはこういう場所かと思われた。『蘆刈』で描かれていた風情のかけらは望むべくもなかった。
最後になるが、京都をはじめ、大阪、奈良にかけては魅力的な名前が多い。単なる地名に奥行きと深い由来を、つまり歴史とロマンを感じることができるのは、自分が日本人だからであり、自分という存在が深くつながっているのはこの国であると思い出させてくれる。
烏丸御池(からすまおいけ)
一条戻橋(いちじょうもどりばし)
綾小路(あやのこうじ)
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)
河原町丸太町(かわらまちまるたまち)
聖護院(しょうごいん)
青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)
蛤御門(はまぐりごもん)
早蕨(さわらび)
縣神社(あがたじんじゃ)
鴻池新田(こうのいけしんでん・大阪)
玉造(たまつくり・大阪)
桜宮(さくらのみや・大阪)
京都駅八条口(きょうとえきはちじょうぐち)
祇園四条(ぎおんしじょう)
清水五条(きよみずごじょう)etc..
三条、四条、五条という規則的ながらも歴史を感じさせる名称、「・・・東下ル」や「・・・上ル」といった住所表記も味わい深い。そして押小路通、黒門通、竹屋町通といったように、通りにいちいち名前がついているのも、私にはヨーロッパを思い出させた。