生きている百合

27/July/2020 in Warsaw

黄色の百合が目に入る。

そこは公園でも教会の敷地内でもなんでもない道端である。

大振りの黄色の百合が、幅3メートルほどの路地裏の小脇に咲き誇っていた。

私は花に対する格段の知識も関心もないが、美しく咲く花には人を惹きつける力があることは確かである。

私は百合に近づいた。

大きく剥き出しに開いた花弁と、その中央から伸びる数片の雌しべと雄しべが目を引く。

茶色の粉をまとった雄しべに取り囲まれた真ん中で、やや上を向いた黒い雌しべの先端は濡れていて、そこだけ花とは思えぬ程の淫らさに満ちている。

一本の雌しべの周りを数本の雄しべが取り囲んで、雌しべに近づこうと競い合っている様は人間の男女関係そのものであった。

花弁の上では、中央の黄色が外べりに行くほどに薄まり、端は白く縁取られている。花弁の先端は大きく反り返って美しい曲面を誇り、優雅を添えている。

もしこの曲線がなかったら百合の魅力の大部分は失われるに違いない。


百合の魅力は、その花の姿だけではない。

特徴的な長くつづもったつぼみも、満開の花の中で調和を乱さないアクセントとなっている。

花といえば一般的に満開であることが最良とされるが、百合の場合、大きく開いた花数輪とともに数片のつぼみを残した姿こそ、バランスが取れていて最も美しいように私には思える。

百合のつぼみ自体に一つの完成した美しさがあって、その整った左右対称の造形、美しさを内に隠しているその羞恥、今にも秘めた美しさを目の前に開顕してくれるであろうという期待を抱かせる思わせぶりな態度...、それらはすべて思春期の少女に通ずる狡さと儚さである。


甘い香りに誘われた蜂のように、私の手はその花弁に触れていた。

強烈な「生きている」という感覚が伝わってくる。

「この花には命があって、熱く生々しいものが内側に充満している」という感覚は新鮮な衝撃であった。

かつて私は、花に触れただけでこれほどの感銘を受けたことがあったであろうか。


我々が何かに触れて、それが生命体なのか、無機物なのかを判別する基準の第一は、まず水分があること、つまり濡れた感覚のあることであろう。

しかしそれ以上に、より感覚的に、よりダイレクトに伝わってくるものはその物体が放っているある種のエネルギーである。

手で触れた時に指先に伝わってくる、生命体同士でしか感知できないその微妙で、しかし力強い脈動と律動。

そのまごうことなきエネルギーは生命体しか持ち得ないものである。


あの百合の花弁から私の指先に伝わり、私にその百合の命を即座に認識させたものは、この生々しいエネルギーであった。

「生きている」という感覚。

その柔らかい花弁の弾力の中には、人間との接触を厭うような、何らかの意志すら感じさせるわずかな反発すらあった。


道端の花に触れただけなのに、私のうちに引き起こされたこの衝撃と感動は、その後数時間、私から去らなかった。

晩になって、なぜそんなにも私は感動してしまったのかを考えると、私はここ一ヶ月以上、生きた物、つまり人間に全く触れていないことを思い出して、それ故に私の感覚は「生きるもの」に繊細になっていたのだろうという考に至る。