いやらしさ

20/June/2022 in Belgrade

日曜日の午後、ベオグラード中心部のカフェでコーヒーを飲んだあとのバスでの帰り際、帰り道で車窓からいつも見えるドナウ川沿いの赤い屋根がゆるやかな丘に並ぶエリアに31番のバスで行ってみた。

Višnjicaという名のこのエリアに来てはじめて、セルビアの一軒の家がどんな様子なのかを見た気がした。思えば市中心部は全てアパートメント、つまり集合住宅であった。

ポーランドのワルシャワでも、中心部から20分ほど南に下ったモコトフ地区に住み始めた時に妙に新鮮に映ったのは、戸建ての家を見るのがはじめてだったからだろう。

Višnjicaのドナウ川沿いの家は、敷地からダイレクトに川岸につながっているようで、ずいぶんぜいたくなに見えた。

モダンな家はなく、古いあばら家かご標準的な家が多かったが、中には普通の各家族には大きすぎるような家もいくつか見えた。

すべての家ではないが、全体的な印象として南欧的な雰囲気があったのが、アーチ状の曲線のデザインの、一戸建ての家のせいかもしれない。

遊歩道はぼこぼこしており、遠藤のコンクリートが大きくくずれているところも見えた。電線は地中化されていない。


バスの車窓からは、ひとりの若い女が見えた。サングラスをかけている。林の中をひとり歩いている。バス停に行って、バスに乗って、中心部にでもいくのだろう。

黒いショートパンツに、胸だけ隠れた服装。上半身はいわば水着といってもいいものだった。

こういう服装の若い女はよく見る。夏の暑さと、肉体をさらすことに対して遠慮のないヨーロピアン気質、プラス、バルカン地方の肉体的接触への遠慮のなさ。

日本の男は西洋人(白人)がそういう服装をしていても、そこにいやらしさがないという。

その見方に私も大方同意する。しかしこれは、そういう露出度の高い女たちを、そういう服装が普通の国で私は見ているので、日本に住む男たちとは前提条件がやや異なるのかもしれない。


日本人の目に夏の白人女がいやらしく映らないのは「この女は外人である」という認識があるからだろう。

一方で日本人女性がそういう服装をしていていると、「この女は日本人であり、自分と同じ日本の社会的・文化的条件を共有しており、この服装がどう見られるのかを知っているはずだ。それでも、あるいはあえて、そうしているのだ」という考えが生まれる。

いやらしさが生まれるか否かは、白人女の身体の造形やファッションセンスではなく、こちら側の主観に依存していることになる。

つまりいやらしく見えるかどうかといったこちらの主観的判断は、相手の内面への推量なしには成り立たないことになる。


ここには、人からどう見られるのかを気にしないヨーロッパ人の考え方が、ある種のノンシャランスな態度を生んでいることも理由としてあるだろう。

日本人女性が同じ服装をすれば、人からの視線や、あるいはつま先まですべて整っているかといった瑣末な事柄にとらわれ、それが奇妙な緊張を孕んだ態度として身体中から発散されるだろう。

そう、日本人のあの神経質な態度は周囲の人を緊張させるのである。