永久不滅の人種差別

6/July/2020 in Warsaw

"Black Lives Matter"のムーブメントはあっという間に全世界に波及し、一時はもはや収拾のつかなくなった様相さえ呈していた。

現在はやや下火となったように見えるものの、先月上旬ごろの勢いはすさまじく、黒人の存在感が全くないような私の今住む国においても、アメリカ大使館の前でプロテストが行われたとのことで、その写真を見てみると、新興宗教の趣さえ感じられる異様さに満ちており、それは人間の集団心理の恐ろしさを見る思いであった。

イデオロギーは抽象観念である分、人を簡単に陶酔させてしまう。

その陶酔は、効果がより速く、より広範囲に、そしてより暴力的に表れるという点で、アルコールよりもタチが悪いものであろう。

しまいには日本においてもデモが行われたとのことで、そこに何か一種の奇怪なお祭り騒ぎを見ているような感覚とともに、もはや救いようのない無力感さえ覚えたのは、私が人種差別を永久不滅のものと考えているためであろうか。


さて、"Black Lives Matter"は直接的には黒人差別、広くは人種差別全般への反対が大義名分であったわけだが、アジア人としてヨーロッパの地に住む異邦人の私にとっては、人種差別は非常に身近なテーマである。

私自身がこの国では人種的少数派に属する「弱い立場」にいるので、いついかなる状況で人種差別に巻き込まれてもおかしくはないと日々感じながら生活をしているからである。

私自身は人種差別の無くなることが理想だと頭では思っているものの、現実的には人種差別がなくなることはないと考えている。


人間には外界との接触器官として、目、鼻、口、耳、皮膚の5つが与えられているわけだが、この中でも目からの情報、つまり視覚情報の優位性は数々の研究でも明らかになっているとおりである。

そのような中で、「皮膚の色が違う」「見た目が違う」ということは、一見して明らかな分、それだけ私たちの感覚や印象に与える影響が大きく、かつダイレクトな効果があることは容易に想像がつく。

このような視覚情報の優位性に基づいて、自分と見た目が異なるものや、自分よりもサイズの大きなものに警戒心や恐怖を感じるというのは、動物としての本能であって、人間以外の動物でも、自分とは見た目が異なる種や属・目のものと交配しないことは、見た目の違いがもたらす影響は本能レベルのものであることを指し示している。


しかしながら、人間は動物でありながらも、他の動物とは一線を画す存在である。

人間と動物を分かつもの、それは人間が本能を理性でコントロールする点であろう。

本能という生まれ持った原始の衝動を、理性という後天的な能力で支配すること。

例えば人間以外の動物は火を恐怖するが、人間はこの火を恐れる本能を抑え、火に近づき、乗り越え、支配して、今の発展を築いてきたのである。

つまり人間の成熟とは、どれだけ本能を理性で制御できているかに表れるのであって、これはやや誇張していえば、人類の発展の歴史とは本能への反逆の歴史であったということもできるであろう。

そのために、例えば性欲という本能をコントロールすることに失敗した強姦魔が法によって罰せられるのは、本能の支配を至上の価値とする人間社会においては当然の理である。


このような点から人類と人種差別の歴史を眺めると、奴隷として人間の権利が認められていなかった時代から現代まで、人間は「見た目の違うものを恐怖する」という本能を徐々に乗り越えつつあるように見える。

しかしながら、理性とは所詮人間にとっては後付けのものにすぎず、少しでも気を抜いたときには原始的な側面、すなわち本能が表に出てくるのである。

「見た目の異なるものを恐怖する」「自分よりも大きいものを恐怖する」という本能は、人類が火を使い始めて50万年前を経てもなお火を恐怖するように、乗り越えることはほぼ不可能な事であろう。

人種差別を受けたとき、それを教育の欠如に帰するテクニックには、自分への慰安の役割しかないのであって、「教育」ごときで人種差別やその他すべての問題が霧散するかのごとき錯誤に陥っている現代の風潮は実に嘆かわしい。

このような救い難い楽天主義者は、人種差別とは本能的動物的生理的感情的精神的情緒的反応であり、教育ごときで矯正できるものではないことを知らないか、又は知らないふりをしているのである。


「人種差別撤廃」という美しいお題目を唱えることは今後も続くであろうし、それは我々が人間としての歴史、すなわち本能へ反逆するという発展の足取りを、今もなお着実に前に進めていることを指し示す格好の例となるであろう。

しかしながら、我々日本人が、白人が多数を占める欧米諸国のパーティーの席などで、中国人や韓国人などのアジア人を目にしたときに感ずるあの妙な親近感が、本能に基づく否定し難い感覚的真実であるように、我々の社会の混血が進み、人類の見た目がある一つの型に近づくか、もしくは分類できないほどに無数に多様化するまで、人種差別がなくなることはないと私には思われるのである。