by axxxm
6/November/2024 in Kraków
(10月17日の日記より)
今週起きたもっとも印象的な出来事は、齊藤元章氏がまだ活躍中であるのを知ったことだ。
ある夜、ネットで氏の名前を漠然と調べると、今年の2月に収録されたシンギュラリティに関するオンラインミーティングのYouTube動画が出てきたのである。7年ぶりに見る氏の姿だった
氏の姿を見たとき、不思議な感覚に襲われた。過去とつながったような感覚である。氏の著作を読み、そして動画で氏の姿を拝見した7年前……つまり私がアムステルダムから東京に戻ってきた2017年11月からの数ヶ月間……「あの当時の自分」と、2024年の「現在の自分」がつながったような感覚である。
こういった感覚はなんと呼ぶのであろうか。「なつかしい」ではない。「なつかしい」という感情には含まれない、ある快楽と喜びの感覚が、ここには鮮明に混じっている。
「生きている」、「自分はまだ生きている」という確かな実感を運んでくるのである。自分が生きていなかったら、こうやって長い時間をまたいだ「再会」はあり得ないからである。
同じような感覚は10日ほど前にも味わった。最近目にした美しい絵と、昨年見かけたある印象的な絵が、実は同じ画家の手によるものだと知ったときである。私はそこで「点と点がつながって線になる」ということを思った。
そして、このようなことを可能ならしめた根本条件としての「時間」の存在に意識を引かれた。
時間が流れたから、そして自分がまだ生きていたから、過去のある出来事を、現在を生きる自分の眼前に蘇らすことができた。「過去の自分」と「現在の自分」は、断絶せずにしっかりとつながっている。自分の人生で起きたすべての出来事は、現在の自分へと、ひとつもこぼれることなく流れ込んでいる……。
取るに足らないと思われたこと、忘れ去られる運命にあった些細な出来事ですら、後々の人生で新しい意味を獲得して蘇るなら、過去に起きたこと、自分の体験してきたこと、つまり「これまでの人生すべて」に無駄なことはひとつもなく、あらゆることに意味があったのだと考えられる。
このような「生の肯定」の感覚へとつながるから、「点と点がつながって線になる」は、単なる「なつかしさ」には無い、あのなんともいえない快楽と喜びを伴うのかもしれない。
長いこと会っていなかった知人や友人と再会したときに感じる感覚も、その源はこれと同じだろう。そして死とは、点と点がつながる可能性の根絶、再会の可能性の根絶である。「生の肯定」の反対である。
過去の出来事はすべて、意味が与えられることを待っている。自分の過去に意味を与えるためには、生き続けなければならない。「生きること」が、過去に意味を与えるための必須条件だからである。
「生きていればいいことがある」という言葉には、実はこのような仕組みが背後にあるのではなかろうか。生きてさえいれば、過去の出来事は勝手に意味を獲得していくことになる。生きてさえいれば、自動的に点と点が線へとつながっていくことになる。生きてさえいれば、自ずと快楽と喜びを感じられる。