by axxxm
14/September/2023 in Kraków
かつて私は「男女関係の終わり」とは、双方が、あるいは少なくとも一方が、「二度と話したくないほど嫌い」という強烈な感情を持っているために起こることだと思っていた。
つまり破局の理由はただ一つ、嫌悪。しかも「強烈な嫌悪」だけだと思っていたのである。
「人間としては好きだけど、恋人としては付き合えない」とか、「XXXというところは好きだけど、YYYというところは嫌い」とか、「好きだったけど、いつのまにか恋人として見れなくなった」とかいった、実に人間らしい、割り切ることのできない人間の感情のグラデーションについては意識もしていなければ、その存在自体を拒絶していた。
男女の人間関係には「好意」か「嫌悪」、白か黒しかないと考えていたのだった。
そのため、別れても元夫とたまに食事に出かけてる女とか、カノジョと別れた後もバースデーメッセージを送っている男などには、人間性の未成熟しか見えず、その依存体質を軽蔑していた。
しかし私も歳を重ねて、徐々にこのグレーゾーン、いわば「感情のあわい」を自分自身の体験として、ナマナマしいものとして知り始めた。
そして、おそらく他の人よりも遅くその存在を知ったためか、今ではそこになにか神秘があるような気すらしている。
そのグレーゾーンこそ「人間らしいこと」「人間であること」の証のように見える。
これまでの人生で知り合ってきた人を思い返してみると、確かに忘れたいような人もいるが、そういう人でも間違いなくどこかの時点で私の人生に参加をしてくれた登場人物であり、私の内面と何かの共鳴を果たした人であり、つまり思い出の一部、私の人生の一部であると知った。
そういう人たちを忘れないでいることは、実は自分の人生を大切にすることと軌を一にしているのだった。
忘れられないし、忘れたくない。