by axxxm
23/April/2023 in Tokyo
なにか形のならぬものが浮かんできて、それを書きたいと感じたとき。
私には日本語と英語の2つの選択肢があるが、それぞれの言語に一長一短がある。
― 1
英語の最大のメリットは、なんといっても多くの人と共有できることである
私のいまの人間関係のほとんどが英語を使う日本人以外の人たちばかりであることを考えると、この点は無視できない。
― 2
英語で一文の長いセンテンスを書くことを私は避ける。
その代わりに、いくつかの短いセンテンスへと分割する。
一方で日本語では、長い文章をしばし書く。
長い文章でないと出せない流れ、滑らかさ、ある種の迫力を出すためである。
私は英語のネイティブではなく、正しい音やアクセントで英語を発音できないが、文章を書く上でもこの点は大きな足かせになっていると感じる。
文章のなめらかさ、読んだ時の自然さがよくわからない。いやまったくわからず、大部分を想像に頼っている。
これが英語で長いセンテンスを避ける最大の理由である。
― 3
発想が広がっていかない感覚が英語で書いているときにはある。
「書く」とは、心のなかのことや頭の中の考えをただ外に出すだけの行為ではない。
考えが深まったり発想が広がったりしていくこと。
予想もしなかった言葉や感じ方が出てくること。
「書く」ことが別のなにかを産んでいくところにこそ醍醐味があるといえる。
ここが日本語で書くときと比べ、英語では明らかに劣る。
英語で書いているときの私は、短文を3つ重ねたり同義語を並べたりと、明らかに小手先の面白みを狙うことが多く、それは確かに「書く」という行為に付随する楽しさではあるが、予想しなかったものが自分の中から出てくるという発見の喜びは少ない。
そのため最近は、日本語でまず書いてその題材のポテンシャルを引き出してから英語で書くというプロセスを取ることが多い。
なぜ英語では発想が貧困に陥るのか。この点を次に説明する。
― 4
1ヶ月ほど前、英語で書いているときの私は同義語を頻繁に調べていることに気がついた。
一方、日本語では同義語を調べることがほとんどない。
同義語とはいわば、水平線の上に並べられた単語たちのことであるといえよう。
隣同士ちかいほど意味が似ている。
つまり同義語を探すとは、この線上で目を左右に動かすこと、もっといえば、x軸という横軸だけのある一次元の空間で目を左右に動かすことである。
ここで思い出したいのは、私の欲しているものである。
私の欲しているものとは実は同義語である必要はなく、単語でも熟語でも何行かのセンテンスでも、あるいは「あえて書かない」という暗示やほのめかしでもいい。
これらはx軸上で目を左右に動かしているだけで見つかることはなく、y軸、z軸も合わせたxyzの三次元空間をくまなく探さなければならない。
目をヨコ、タテ、そしてオクにも動かすという縦横無尽のアプローチが必要なのである。
これと比べると、英語で同義語を調べるとは非常に限定的なところにしかアプローチできないとわかる。
これこそが上述した発想の貧困化の原因であろう。
言葉を使って私たちは考える。
「言葉を探す」とは「違う考え方をする」「違う視点で物事をながめる」ことである。
この「言葉を探す」が、英語では単語あるいは熟語を探す程度しかできず、日本語ほどの広さと深みが出ない。
ここに英語で書く難しさがある。