外国に住みながら、日本人に向けて書き続ける疑問

4/March/2023 in Tokyo

*English ver

書店にて山﨑佳代子の新著『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』を見かける。

私が氏の名前を知ったのは昨年の初めごろ、セルビアはベオグラードを訪ねる数ヶ月前だった。

図書館で見つけた『そこから青い闇がささやき』を開くと、文章はなぜか佐井好子の歌声を想起させた。

そこからセルビアにもっとも関係するように見えた『ベオグラード日誌』を少し読みかけたが、実は氏の本を最後まで読み切ったことはない。


日記は、その書き手に対する強い興味がないと読み進められない。

私たちは人の話にそもそも興味がないのである。それが聞いたことも会ったこともない他人の、しかも日常雑記などであればなおさらである。

さらに日記には小説のように一貫したもの(ストーリー)がないので、読み進めていくモチベーションを保ちづらい。

日記といえばいつも高野悦子の『二十歳の原点』を思い出すが、いま気づいたのは、日記にもかかわらず私が(そしておそらく多くの人が)あの本を読めるのは、高野悦子が最後に自殺したという結末を事前に知っているので、その理由を知りたいというある種の「ストーリー」を勝手に投影しているからではなかろうか。

アムステルダムに住んでいたころ、『アンネの日記』を日本から持っていっていたが、結局あそこに住んでいた2年の間まったく読み通せなかったのは、彼女に対しても、その人生の終わりに対しても興味が湧かなかったからであろう(アンネ・フランクは亡くなったが、その死は自殺のように自分の選択・意思によるものではなかったので、日記の中にその動機を見出そうとするモチベーションは湧きづらい)。

こう考えると、生きている人が書く日記というのは、書き手がまだ生きており「ストーリー」が完結していないように見えてしまうという点で、さらに読むモチベーションが湧きづらいものではなかろうか。


さて、山﨑佳代子の新刊を見つけてしばらくして思ったのは、外国に住みながら日本語の本を日本で出し続けている日本人作家に対する違和感だった。

どんなに第二、第三言語をうまく使いこなせても、母語でしか書けないと思う気持ちは私にもよくわかる。

しかしそれが日本語で書かれている以上、基本的に日本人以外は読むことができない。

外国に住む著者の生活で一番ちかいところにいる人たち、「あなたの本を読んでみたい」と直接いってくれる周りの人たちは、それを読むことができない。

(普通の外国人は日本語を理解できない。もし周りの人がみな日本語を理解できるのだとしたら、その著者はよほど特殊で狭い世界に住んでいるといえる)。

実は一番真摯に読みたいと思ってくれている顔の見える読者ではなく、日本という遠い国の、顔の見えない誰かに書いていることに、なにか虚無感のようなものを覚えないのかと思ったのである。

こんなことを思うのは、いまは外国人の知り合いの方が圧倒的に多いにもかかわらず、私自身が日本語でものを書いているためである。

知り合いから「あなたの本を読みたい」と言われては、「日本語で書いてあるから」という言葉を言い訳のように返しているが、実は私が一番読んでもらいたいと思っている人たちは、今の私と関係のある人たち、つまり日本語を解さないこの外国人の人たちなのである。

私はプロの書き手でもなんでもないが、おそらくそれ故に、周りの人と共有できないものを作り上げては、遠く離れた国(日本)でプロというポジションで大々的にリリースすることに、なにか思うことはないのだろうかと感じてしまうのである。


.....と上のようなことを記して数時間後、「身近な人に読んでもらえるだろうか」「隣の人の読みたいという期待に応えられるだろうか」といった世俗的計算は二の次であって、書く人というのは衝動に突き動かされて書くのだろう、いや書くのだ、と思う。