by axxxm
24/January/2023 in Tokyo
高野悦子の大学入学前後〜3回生までの日記『二十歳の原点 序章』を読んでいて、彼女が「本を読んでも文字を追っているだけと感じる」という一文が目に入る。
そういえば私も彼女の年頃のころはまったく同じだった。
自分が未熟だとわかっているから、そして自分を高めていきたいと思うから、それを本を読むことによって果たそうとする気持ち。
その一方で、本を読むのは、実は自分の快適なゾーンを一歩も出ない場所で行える安全な行為、実は甘えに満ちた環境であることに気がついているから、背水の陣という感覚はない。
あの頃は私も、自分の見方、自分の意見、自分の思想というものを持ちたかったし、それを持っているように見える人にも憧れた。
もしかしたら実はすでに当時、私は「自分の見方」を持っていたのかもしれないが、そうとは信じられなかった。
今そういうことにもう煩わされないのは、自分の人生が社会の大多数とまったく異なったものになって、そこから生み出されるもの、つまり私の見方なり意見なり思想なりも自ずと独自のものとなっているはずだという自信を覚えるようになったからだろう。
それはさておき当時は、読書をして、書かれていることが血と骨になる感覚を得たいのに、いくら読んでもそういう実感がまったくなかったことを思い出す。
こういう感覚を今は失ったことに気づくと、「歳を重ねて繊細になった」と思うのは傲慢で、ある種類の繊細さはなくなってしまったことに気がつく