ヨーロッパ人男性の恐怖(Homosexuality 2)

3/June/2023 in Tokyo

*English ver

ヨーロッパにしばらく住んでいると、同性愛と思われることを男性が非常に恐怖していることに気がつく

もちろん日本の男性においても同じ恐怖はあり、おそらく地球の歴史のどこを探しても、「男性異性愛者にとって同性愛者と誤解されることが名誉である」という価値観は存在しなかったであろう。

しかし存在している恐怖は同じであっても、その度合いはヨーロッパ人の男たちの方がはるかに強いことは疑いがない。

彼らの恐怖は、私のような日本人の目には時折り過剰と映るときもある。

それはキリスト教的な価値観やら、そこから派生する文化やら種々の歴史やらの結果であるので、恐怖の度合いが男性同性愛に比較的寛容な文化をもつ日本人男性と違っていても別に不思議なことではない。

そしてどちらが優れている、あるいは劣っている、もしくは進んでいる、あるいは未開であるということでもない。

それでも私がヨーロッパに住んでいて時折りひどく退屈だなあと思うのは、男たちのファッションである。

「筋肉 = 男」の象徴といった考えから、着る服に関心を払ったり髪型にこだわることなどはすべて「男らしくない」となり、そして仕舞いには「おしゃれな男はゲイ」という考えに至る。

「男の身を飾るべきものは服ではなく筋肉である」と彼らは内心ふかく確信している。

この当然の結果として、「男らしくあるためには、ファッションや見た目にこだわるべきではない」となり、どうしようもないほど退屈な見た目の男たちがヨーロッパの街には溢れるのである。

ここで「同性愛と思われることに対する男性の恐怖心の強さ」とは、「男らしさに対するこだわりの強さ」と同じであることに気がつく

当然、日本においても「ファッションにこだわることは女っぽい」という見方はあり、「男らしい・男らしくない」という価値観も存在している。

しかし繰り返すように、存在はしていても、そこに対するこだわりの強さには違いがある。大きな違いがある。

一般的に日本はヨーロッパよりも保守的で伝統的な社会とみなされるが、日本人男性のある種の意識と、その具体的な表れとしてのファッションは比較にならないほどリベラルであることを私はいつも面白く思う。

「男らしい」ということが精神や内面の事柄として主に扱われ、他者からも見える形で外に示すことへの社会的・文化的要請が低いのである。