肉体労働者に対する叙情的関心

9/August/2020

昨日トラムに乗っていると、上半身裸の男が車内に入ってきた。

男は足が悪いのかびっこをひいており、この街のホームレスがよく持っている引き車のようなものを男も持っていたので、私はこの男もルンペンかと思ったが、浮浪者のあの鼻につく臭いはなく、他の乗客も何故かそこまで嫌悪感を示しているように見えなかった。

実は私は、男が車内に来る前からこの男の存在に気づいていた。

トラムがトラム・ストップに滑り込んだ時、ストップの端の柵の外側で、この男がモナカのようなアイスを豪快に食べているのが見えたからだ。


昨日と同じように今日も気温は30度に達していたが、このような暑い日には上半身裸の男を街のいたる所で見かける。

一国の首都であるワルシャワという近代的な街でも、そんな男達が特段奇異の目を向けられることなく、平然と存在しているところに、私の母国との大きな文化的差異を感じるのが常である。

アイスを食らっていたこの男も上半身裸で、そこに驚きはなかったが、その無作法にアイスを食べているさま、そのはしたなさ、その無教養、その常識感覚の欠如は、目をすぐに背けたくなるような嫌悪を私にもたらした。

なによりこんなuncivilisedでunculturalな人間が、都会から離れた辺鄙な場所でなく、首都の中心から10分程のところで見られることに、文化や慣習や意識や常識やその他諸々の隔たりが、日本人である「私」と「彼ら」の間には厳然と存在していることを改めて感じさせた。


男が車内に入って来た。

最初、ドアの近くに立っていたが、トラムが動き出して思いのほか揺れることを知ってか、私の前の一つ席を空けたところに腰を下ろした。

依然としてアイスを手に持っていて、無作法にむしゃぶりついていたのだが、改めてその男の顔を見てみると、浮浪者とは思えずさっぱりとした顔で、ヒゲは剃られ、髪も短く刈り取られている。

一日中、日なたで働いている肉体労働者のような少々焼けすぎな肌は健康的で、アイスを咀嚼するたびにシワが頬に表れたが、このシワは男が笑った時の顔を私に想起させた。

目は大きく、アイスを頬張りながら、車外のどこかを遠い一点を見つめていた。

このような男に私が叙情的関心を覚えるのは、私とは全く正反対の属性を持っているからだろう。

常識だとか、作法だとか、教養だとか、知性だとか、礼儀だとか、身だしなみだとか、自尊心だとかいう、現代人特有の迷妄、妄執、つまり肥大した自意識の産物は歯牙にもかけないことが一見して明らかであること。

「一見して明らか」...、言葉による伝達ではなく、彼らの外見と振る舞い、つまり彼らの肉体自体が本人の生き様を、あからさまなほど明朗に伝えるミディアムとなっているのである。

「肉体の説得力」ほど快活なものはあるまい。

肉体のそのあからさま、羞恥心・自意識の不在、彼方に伸びる海岸線を見るような無限の伸びやかさは、「言葉の説得力」がどうあがいても持ち得ないものである。


いわゆる「肉体労働」というものに従事する男たちを見るたびに私の胸に湧いてくるあの羨望感は一体何なのだろうか。

冷暖房の整った快適なオフィスでコンピューターを前に誰の役に立っているのかわからない仕事をしていることに自分が手抜きをしているような、楽な人生を歩んでいるような後ろめたさを覚えるあの感覚。

彼らのような肉体労働の仕事こそ、より正しくて、より社会で必要とされて、より労働と報酬の関係がわかりやすくて、あらゆる面でより明朗で、そんな仕事に従事している彼らの方がより人間的で、より善い生き方をしているように見えてしまうあの感覚。

自分の身体を資本に、風を感じながら、雨に打たれながら、汗をかきながら、仲間と肉体的苦労を分かち合いながら、時折木陰でタバコをふかして休みをとるような働き方と生き方。

オフィスで一日中イスに座っている痩せ衰えた病弱な身体の男や、もしくはジムで人工的に鍛えた男たちを、彼らのような肉体を日々の資本としている者たちと同列に並べて「労働者」と一括して呼ぶことに私が抵抗を感じるのも、根は同じである。


男が私の前に座ってから5分ほどして、男はトラムから降りていった。

引き車を手に持って、片足をひきずりながら、肉体の説得力を示しながら。