まなざし

14/May/2023 in Tokyo

「のぞき」や「盗撮」のニュースは見るたびに覚える嫌悪。

それは法律で犯罪とされているルールが破られていることへの倫理的な嫌悪ではなく、ましてや被害者に同情する人間的良心に由来する嫌悪でもない。

盗撮、のぞきといった行為には、私の嫌悪するこの国の人間のどうしようもない精神的もろさ、どうしようもない精神的未熟、どうしようもない精神的奇形がよく表れているように思うからである。

なぜこの国の人間どもは、こうも「みみっちい」行為に興奮を覚えるのであろうか。


日本で盗撮が多い理由についてネットで調べると、「カメラの小型化」「日本ではレイプなどの『より悪い』性犯罪が少ないから、『より軽微な』盗撮などの犯罪が多く表に出る」という説明が出てくる。

私は当然こんなものには納得しない。

のぞき趣味に没頭する原因が、技術の進歩だとか深刻な性犯罪が少ないからとかいった表面的なものではなく、この国の人間のゆがんだ精神構造に由来していることには確信がある。


日本人は「視線」というものに異常なこだわりがある。

それは病的といえるほどで、私は道を歩くたび、どの日本人も他人と目を合わさないよう歩いている様子を不気味に思う。

目を合わすことは、この国の文化では忌避すべきこと、いわばタブーである。

そのためあらゆる対人の場面において目線を外すことが求められる。

こういった環境にずっといると疑問に思うことはないが、一度国外に出たり、あるいは外国のインタビュー動画などを見れると疑問に思うようになる。

そしてそれに慣れてしまうと、日本人が目線を常に外してうつむきながら話している様子は、おどおどしていて、愚か者のようで、自信が足りておらず、そして自意識だけ過剰な、つまり病的なものにしか見えなくなる。

この国の人間は「見る」「見られる」という関係性に特異で強烈な何かを抱いているのである。


岡本太郎は自著に「日本人は性器に強い関心を寄せている」と書いていた。

これを数年前に目にしたとき、そう思っていたのが自分だけでなかったのだと新鮮な喜びを覚えると同時に、そこがもっと深く追求されず、この文章のすぐあとには別の話題が始まることに軽い不満があった。

それから時間は流れ、先日手にした『秘めごとの文化史(ハンス・ペーター・デュル著)』には、岡本太郎の本とぼぼ同じことが書かれていた。

こういった半学術書のようなものにも同じ記述があるということは、私の「日本人はなにか性器に並外れた関心がある」という推測をたしかなものにするには十分であった。


性行為の文脈で言えば、この国の人間は行為の前段階に「見る」というプロセスを設定しており、そこで何か特異で奇妙な満足を得るのである。

日本のポルノビデオにしつこく性器のアップや、あるいは男優の凝視が出てくることもその証左であろう。

そしてそこだけが切り取られ、のぞき、盗撮といったもの、あるいは店の中を歩いている女性店員のスカートの中を床に設置された隙間からのぞくといった、倒錯しているとしか思えない性サービスが登場してくる。

「垣間見」などという平安貴族の行為も、この国の男の歪んだ性癖のひとつの表れ、もしくはこの性癖を育んだひとつの原因だろうと私は考える。

のぞきや盗撮は、日本人の病的な対人恐怖症、病的な自意識の過剰、病的なコミュニケーション能力の低さと同一線上にあるとしか私には思えず、そして私もこの連中と同じDNAを共有していることに強烈な嫌悪を覚えるのである。