奈良滞在

23/March/2023 in Nara

奈良を訪れた。3泊4日のごく短い滞在だったが、この街の印象を記す。


JR奈良駅に水曜日の午後3時過ぎにつく。

京終駅方面にある宿に向かっていて最初に思ったのは、人の少なさだった。

地方のさびれた街のような雰囲気で、ここが奈良でなかったならわざわざ足を運ぶ場所だとは思えない。

夜の街を歩いても、20時過ぎには商店街のシャッターは閉まり、人通りもほとんどなくなってしまっている。

東京などでは0時を過ぎないと見ないような、店先に投げ出されたごみ袋の山がすでに20時すぎには現れているのが妙に新鮮だった。


奈良で泊まる宿を探していて気がついたが、京都と比べてこの街の宿泊場所は非常に少ない。

調べてみると奈良は客室数が全国最低だという。

その理由としては次のようなことが書かれていた。

地面を掘るとすぐに遺跡が現れ、各種の学術調査が数年かけて行われることになるため、ビジネス上の不透明さとリスクが大きいこと。

なにもしなくても観光客が来るという「大仏商法」に甘えていること。

奈良には大阪や京都から日帰りで来る観光客が多く、泊まっていかないこと。

3つ目の理由が私にはもっとも正解を言い当てている気がする。

今回はじめて大阪から奈良に入ったが、大阪駅から環状線直通、わずか1時間で奈良駅に着くのは実にスムーズだった。

京都駅からでも直通で1時間ほどであるなら、奈良は日帰りの旅行先としては最適である。

こういったアクセス性に加えて、奈良は見どころが少ないことも理由であろう。

いや、奈良に見どころが少ないわけではない。しかし観光客、特に外国人観光客にとって、奈良の見どころがどこなのかわかりにくいことは確かだと思われる。

日本人であれば「法隆寺」「薬師寺」「飛鳥」「鑑真」「平城京」などの名はどこかで耳にするであろうし、聞き馴染んでいることが実際に訪ねるきっかけとなりうる。

しかし外国人観光客はこれらの名前に馴染みはないであろう。

そして奈良といえば各寺がユニークな仏像を誇っているが、仏像は日本人にとってもたいして面白いものではない。

つまり奈良には「わかりにくさ」、そして「近づきにくさ」があるように見える

この点は京都と比べるとさらに一層はっきりする。

金閣寺の金箔や龍安寺の枯山水、清水寺の舞台、嵐山の桂川の雄大な眺めといった、大きさや色彩で観光客を驚かすようなもの、あるいは奇をてらったもの、「一見してわかるもの」が奈良にはほとんどなく、見る側にある程度の知識や経験、そして忍耐を要するものが多い。

しかし「忍耐」こそ観光客にはもっとも縁遠いものである。

また奈良の方が歴史的に前であり、かつ都であった期間も京都よりはるかに短いという「歴史の遠近・時間の長短」というところにも奈良の「近づきにくさ」の理由はあろう。

しかしそういう奈良で、東大寺の大仏とその前に広がる奈良公園のシカだけは例外的である。

奈良という場所にあっては、大仏とシカのわかりやすさ、近づきやすさはより一層強調される。

そのため観光客、特に外国人観光客が、大阪や京都からやってきては大仏とシカだけを見て去っていくのも当然に思える。


奈良を最後に訪ねたのは10年前で、奈良のあとに京都にも行った。そして当時の私は奈良の方をよっぽど気に入った。

観光客は少なく、ビルも少なく、自然は多い。

今回はじめて知ったが、奈良でもっとも高い建物は興福寺の五重塔だという。当時、奈良の方が京都よりもよっぽどauthentic(本物)に感じられたのも当然だった。

ちょうど1ヶ月前の2023年2月に2週間京都にいたので、今回もふたたび奈良を京都との比較の視点で見ていたが、10年前の印象は引き継がれていた。

奈良を歩いていてふと「primitive(原始的)」という言葉の浮かぶことがあった。

京都のような豪華絢爛で雅な雰囲気はまったくなく、古い木造建築と色あせた仏像のくすんだ色彩で占められた奈良は、一言でいえば素朴、あるいは原始的、未成熟である。


京都滞在について書いたこちらで触れたように、京都でもっとも印象に残ったのは川だった。

川が京都を特徴づけていることは明らかだった。

この視点で奈良を見ると、奈良を特徴づけているのは丘だと思われる。

奈良公園の端に飛火野という場所がある。

ここから南の方に目をやると、なだらかな暖かい丘が見えた。

3月中旬の丘の色はまだ土の色が目立つ。

私のうしろではシカたちが草をはんでいる。草はまだ伸びておらず、シカたちは地面に這う根に近い部分を食べているので、ミシミシと音が聞こえてくる。

山から伸びてきた稜線の余韻にたゆたうこのゆったりした丘こそ、奈良を特徴づけていた。

文化的な未発達故か、それとも時の風化によるものなのか、奈良の事物は自然と一体化、もしくは自然と地続きでつながっている感が強い。

ある一定の領域を塀や堀で区切ったり、ソトとウチの区別を明確にはしていない。

境界線はぼやけて、自然とゆるゆるとつながっている。

こういった印象を抱いたベースには、10年前に南の飛鳥地方で見た景色や、今回の滞在初日に歩いた山の辺の道の大神神社あたりの風景があった。

それらが飛火野から丘を見た時につながったのである。

境界線がぼやけている例は、シカが厳格には管理されずに、市街の中心近くでほぼ放し飼いにされているという実に日本らしくないところにも見られる。


大神神社から山の辺の道を北に進んですぐのところに、磐座神社(いわくらじんじゃ)というごく小さな神社があった。

ここには普通の神社のような社殿も本殿もなにもなく、岩をそのまま祀っているだけなのだが、それは三輪山をご神体として祀っている大神神社のように、primitive(原始的)で自然とのつながりを感じさせた。

こういうところからも、自然と人間をつなぐ「線」としての丘が、奈良を特徴付けているように思えたのである。