by axxxm
17/December/2018 in Warsaw
自分の感情を言葉で表現した時に感じるあのズレはなんであろうか。
自分の「言葉」と「感情」が正確に照応していない、と感じるあのいいようのない不満の感覚。
「感情」に「言葉」が介入してくると、「感情」はたちまちにしてそのみずみずしさと鮮やかさを失って、退屈な、平凡なガラクタと化してしまう。
無定形、無限定、無目的を特徴とする「感情」に、「言葉」は枠をはめて狭い世界に追いやり、一定の方向性を与え、一定の意味づけを行い、当人すらも気づかぬうちに、最初あったはずの「感情」の無垢さ、純粋さを奪ってゆく。
「感情」を「言葉」に翻訳して、表現したり、人に伝えたりする危険はここにある。
一旦「言葉」に変換された「感情」は、本当に「感情」と呼べるのだろうか。
少なくともその「表現されたもの」は、「最初心に湧いたもの」とは異なるであろう。
「言葉」によって「感情」をすべて述べ表すことができる、と考えることは大いなる誤解である。
「言葉」は「感情」に対して節度を持って接しなければならない。
図式的にいえば、「感情」とは心の働きで、「言葉」とは脳の働きである。
しかしそもそも、「感情」を「言葉」で述べ表す必要性というのは、それほど高いものなのだろうか。
「心」の領域に属する事柄を「脳」によって処理する、という事には、いささか倒錯の気配も感じられる。
心に浮かんだ「感情」を、そのままの状態で置いておく事ができれば、それは理想だ。
「言葉」によって「感情」をフィックスさせず、生まれた時のままに「ふわふわ」した状態で「感情」を留め置くこと。
しかし現実にはこれが難しいからこそ、人は「言葉」を使って「感情」を翻訳し、表現し、日記に書き記したり、人に話したりするのであろう。
三島由紀夫は、言葉と肉体の連関について説いた「太陽と鉄」にて、こう書いている。
「言葉は本来、具象的な世界の混沌(カオス)を整理するためのロゴスの働きとして、抽象作用の武器を以って登場したのであった。」
つまり「言葉」とは、現実世界の混沌を整理するという目的を持って登場したものであり、「感情」というグニョグニョした、形のない、絶えず海風に吹かれ揺れ動いているものに、形を与え、重さを与え、一つの場所に留め置くことこそが、「言葉」の本来の機能なのであった。
言い換えると、「言葉」には、野を無目的に駆け回る無邪気な動物を、周到な罠によって捕まえる卑しい狩人のような精神が本質的に備わっているという事だ。
一つ一つの「言葉」とは、処女を穢すあの精虫のごときものであり、「言葉」によって犯された「感情」は、すでに穢れ、貶められている残骸なのである。
いかにして「言葉」による汚染を避けて「感情」の純潔を保つか。これが問題なのである。