石原慎太郎の自伝を読む

28/March/2023 in Tokyo

近日、石原慎太郎の自伝『「私」という男の生涯』を数日かけて読んでいた

2022年の衝撃的な事件として、2月のウクライナ戦争と7月の安倍元総理の死去がすぐに思い浮かぶが、実は2月頭の石原慎太郎の逝去の報にも驚いたのだった。

しかしそれが安倍氏のように長い間あとを引くものにならなかったのは、石原氏は年齢故の死というごく自然な形であり、かつ近年の姿からその日が近いこともなんとなく予想できていたからであろう。


この本を読み始めて最初に気がついたのは、石原氏の声が聞こえてくることだった。

印刷された文字をたどっていると、まるで石原氏が読み上げているかのように感じたのである。

同じような体験はここ最近2回あった。

安倍元首相の『安倍晋三回顧録』を読み始めたとき、安倍氏の声が聞こえる気がした。

また最近訪ねた奈良県は狭井神社にある三島由紀夫の石碑近くには氏の手紙の書き置きがあったが、それを読んでいる時も、まるで三島由紀夫の声が聞こえるようだった。

これらはすべて、私が何度も動画などを見て彼らの声をよく知っている故だが、かつてどこかで目にした「私たちが人を忘れていく順番」として最初に挙げられていたのは「声」だったのは、実に正しいように思った。


私が石原氏の自伝に興味を持ったのは、この本の中には不倫関係でつきあった女たちの話が多く書かれているというレビューを見たからだった。

死を見据えた長い人生の最後にある男が、どのように過去の女たちをふりかえり、それをどのように・さらにどの程度まで公にさらすのかに、自分でもmemoir(回想録)を書いている身として他人事ではない関心を抱いたのである。

読み終わってみると、思ったよりも女に書かれた部分は少なかった。出てくる女の数も4、5人ほどと、これも意外に少ないと感じた。

石原慎太郎ほどのカリスマ性と好色漢なら、割かれるページ数も女の数も多いと思っていた。

しかし「やはり」というのか、私のぼんやり予測していたことがあながち根拠のないものではないと確認させられた。

男は死の間際になっても昔の女を思い出す、ということである。

本の中盤の複数の女たちのパートが終わったあとの後半部分でも、次のように何度か女たちの言及がある。


・・・生まれつきの好色の報いはいろいろな形で私の人生を彩ってもくれたが、それらの思い出に関わる感慨も、所詮死の後の虚無感の中で虚無に帰していくのだろう。それを悔いたり懐かしむ時間は今、私にどれほど残されているのだろうか。

・・・私の人生も素晴らしい女たちとの出会いによって形作られてきたことも確かだ。

(中絶の後)自責の念に堪え兼ねて彼女の様子を確かめるべく電話した私に、彼女がひと言、「私今、心がとても寒いのよ」と訴えたのが身にしみたのを未だに覚えている。その罪をいかに償ったらいいのか未だにわからずにいるが。

寝つこうとする度、私はあの青春の輝く記念碑とも言える南米でのキャラバンの旅、あの心地よい貿易風にさらされながら続けた地球の海が丸くて遠いという実感にひたされながらのトランスパック・レースの思い出を、せめて夢に復元して味わいたいと願うのだが、それはあり得ない。何度も蘇るものは非業の死をとげてしまった、妻以外に熱愛した女たちばかりなのはなぜだろうか。女への熱愛は妻や家族への愛着とは本質別の何なのだろうか。


女との思い出に、やはり男は死ぬまでつきまとわれるのだと改めて思った。

老年の、死を間近に控えた時にでも蘇ってくるのが若いころ(あるいは体の自由が聞くころ)の女との思い出というのは、今の私には絶望的に見える。

私は過去の追想などができる時間を持たずにこの世をあとにしたいと思う。


もうひとつ、否が応でも注意を引かれるのは死の記述である。

死への言及は文中で何度もあり、特に後半につれて恐怖や達観といった感情も交えて増えていくが、冒頭近くで出てくる次の一文がもっとも切実なものに見えた。

自分を忘却してしまって死ぬのだけは嫌だ。そんな風に終わる人生なんぞ、結局虚無そのものではないか。忘却は嫌だ。何もかも覚えたまま、それを抱えきって死にたい。

老後という時間に、死を意識して生きること。

石原氏はそれを「焦り」「虚しさ」「荒涼とした人生の季節」と形容しながらも、自殺だけは明確に否定していた。

それは自殺した江藤淳や三島由紀夫に何度も繰り返し言及している分、より印象的だった。