忌まわしい力学

20/May/2020 in Warsaw

ポーランドでは、若い人の比較的多くがMaster Degree、つまり大学院修士の学位を持っている。

これは、ポーランドでは基本的に学士課程が3年、修士が2年となっているので、学士修了後にそのまま修士へと進み、5年で修士の学位まで取ってしまう人が多いことによる。

ポーランドと書いたが、実際にはヨーロッパに住んでいると修士課程まで進んでいる人に出会う確率はかなり高い。

日本人がそれを見て、ヨーロッパでの教育にかける情熱は日本よりも高いだとか、ヨーロッパ人の知能の高さが云々いう意見を時折散見するが、このような取得学位の違いは単なる制度の違いが生んでいるに過ぎないのである。

ポーランドに限らず他の欧州諸国、例えばイギリスにおいては学士3年、修士1年という大学が多いので、ここでは修士まで4年で取得できてしまう。これは4年で学位までしか修了できない日本と比較すると、同じ時間をかけている分、日本の大学にいくことが損のようにも見えてくる。

実際、履歴書などに自分の学歴を書く場合、最終学位を学士と書くのか修士と書くのかというのは、採用側の印象に大きな違いを生むであろう。

どこの国でも大学生の最大の関心事は就職であるので、大学は就職機関として機能することが求められており、短い期間で2つの学位を授けられることは、そのような大学の役割を最大限全うする(or しているように見せる)良い方策であろうし、またそれによって多くのヨーロッパの大学生が採用の機会で便宜供与を受けているのも事実であろう。

しかし、そのような現実的便益があることは承知しつつも、私はこのような誰も彼も修士まで行ってしまうヨーロッパの若者の風潮を好ましく思えない。

これは畢竟、大学を当世風に「就職斡旋機関」として見るか、もしくは「アカデミズム」として見るかの違いであるが、私は後者の立場に立つ者であって、社会と学生の現実的要望に応えることも大学の重要な役割と認識しながらも、しかしながらそれによって学問の府としての矜持を失うことは本末転倒であると考えている。

これはすなわち学位の品質保証の問題である。

日本の状況を鑑みると、私はヨーロッパよりもまだまだ学位の品質が社会で保たれていると感ずる。

日本の大半の大学生は、そのほとんどが学士修了後に就職をするようになっており、修士に進む者は、最近では増えてきたとはいえ、まだまだ少数派である。

これはつまり修士以上の課程に進むことに対しては、ある種の覚悟がいまだ求められていると言え、学位の品質が保たれることによってまた社会においては学位に相応の敬意が払われているということである。

欧州のようにのんべんだらりと、意思も目的もなくベルトコンベア式に修士まで進むのと、その都度区切りがあって、ある種の覚悟が求められるのでは、後者の方が望ましいことは言うまでもない。

「過去と比べて知の総量は増え、学校で学ぶべき量も増加しているので、より多くの人が修士・博士といったレベルの高い教育を受けるようになるのは当然の理であり、またそれをもって社会により優秀な人材を供給できることは、大学の本義に適う望ましいことである」というと進歩主義的でなにやら聞こえはいいが、その実態は学位もコモディティ化しているということであり、かつて敬意が払われていた権威や価値を、ひたすらに庶民の目線まで引きずり落とす現代特有のあの忌まわしい力学がここにも露見しているのである。


現代社会の功罪とは、すべてのものを等しいポジションに置くような奇怪な、平等主義的な力学が、至るところで働いていることであろう。

特別な物も、行為も、すべてが日常の家財道具と同じ位置にまで貶められてしまっている。例えば旅行という、かつては特別であった事も大衆化・日常化した。セックスも、今では金すら払わなくても手に入るものとなった。

かくて「非日常」「神秘」という感覚を覚える瞬間は我々の人生から一掃されたのである。