はじめての悲しみ ― 9歳の薄弱

27/January/2024 in Tokyo

*English ver

一週間ほど前、明かりを消して布団に入ると、昔の情景が蘇ってきた。

あれは9歳の冬。この街に引っ越してきてはじめて降った大雪の翌日。空には太陽が出、よく晴れていたが、地上には雪が厚くつもっていた。
学校から帰って、外に出る。家の裏の川をすこし下ったところの浄水場にさしかかったところで、男に話しかけられた。60代くらいだろう。なんと言って近づいてきたのか覚えていない。子供がひとり、雪の日の午後を歩いている景色に、なにかこころ惹かれるものがあったのだろうか。遠い自分の幼年時代を思い出していたのかもしれない。運動神経のよさそうな、肌の焼けた男だった。
私たちは雪の投げっこをした。一緒に雪だるまも作った。
しばらくすると、男はどこかへ向かう途中だったようで、立ち去るそぶりを見せた。「童心」へ十分に返ったのだ。
「雪はこうやって遊ぶのが一番だよ」といって、男は厚く積もっている雪にいきおいよく倒れた。同じことをするようにいうので、私も前に倒れて、雪に自分の形をつけた。
雪を信頼して、身を委ねる。
前へ倒れる前のわずかなためらいと、倒れる身に吹き付ける自由の感覚。
男は去っていった。

翌くる日も晴れていた。
学校のあと、私は浄水場へ行ってみた。あの男とまた会えるかもしれないと、ひそかに思っていた。
浄水場の厚い雪の景色は、いたるところが黒く汚れ、溶けていた。
男がまた通りかかることを願って、しばらく待ってみた。しかしやってきたのは少年たちだった。 小学5、6年くらいであろう。3年生の私にはとても大きく見えた。
少年たちは、私たちが作った雪だるまを見つけると、笑いながら蹴りはじめた。1メートルほどの雪の大玉をふたつ重ねただけの雪だるまは、徐々に雪だるまとはいえない形に歪んでいく。私はその光景を遠くから見ていた。
私に何ができただろう。上級生を相手に止めに入ることは不可能だった。

私がそこで感じていたこと。あの瞬間こそ、私がある種の「悲しみ」といったものを人生ではじめて知ったときではなかったか。
男と作った雪だるまが壊されていく。それは私と男の思い出が壊されていくことだった。
雪だるまが靴で汚され形を失っていく。それは私の記憶が傷つけられ、失われていくことだった。
そしてそれをただ見ていることしかできない自分。それは強さと勇気が私に欠如していることの証だった。
悲しかった。しかしその悲しみは単なる悲しみではなく、破壊を止めることのできない自分の非力と合わさった、複雑な味の悲しみだった。

……私はこのことを親に話したり、学校の作文に書いたような記憶がある。あのとき感じたことが、しばらく心にひっかかっていたのだろう。
あの日、雪だるまが壊されていく光景を見たあとの私は、悲しみの複雑さを知ってしまった私だった。