『そこから青い闇がささやき』を読んで

15/April/2023 in Tokyo

ここ数日、山﨑佳代子の新著『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』と2003年発刊の『そこから青い闇がささやき』を読んでいた。


『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』を本屋で見かけたときのことはこちらに書いたが、今回読み始めて思ったのは、それとやや似たことだった。

外国の地に生きること、そしてそこから当然生まれるNationalityとIndividualityの関係についてである。

著者はセルビアに30年近く住んでいるというが、どんなに長く住んでいても、日本人は日本人というフィルターを通してでしか扱われないという、私がすでに知っていたことを本書で改めて確認させられた。

それに対して筆者がどう思っているのかわからないが、少なくとも今の切実な事柄でないことはわかる。

川岸で知り合った子供に日本語の単語を教えたり、近隣に住むセルビア人に日本料理の作り方を頼まれるということをさらっと書き記しているところからも明らかである。

しかし私は読みながら自分を重ね合わせてしまった。

30年経ってもNationalityについて言及されたり、自分の"Japanese-ness"を意識させられるのは私には耐えられないだろう、と。

いつまでもHiroshimaだとか、TOYOTAだとか、あるいは日本の歴史だとか日本のテクノロジーだとかを聞かされ続けるのは、褒めるのであれ貶すのであれ、いや単なる言及であっても、私には耐えられない。

それと同時に、「自分のNationalityや"Japanese-ness"についての話題は、たとえば過去に変わった仕事についていた人が、そのことについていつまでも質問を受けるのと同じなのかもしれない」とも読みながら思うときがあった。

たとえば探偵、ボディーガード、兵士などの「特殊な仕事」についていた人が、その時の経験について初対面の人に聞かれることと、自分の国について言及されることは同じではなかろうか、と.....。

おそらく同じ人もいるのだろう。しかし私にとっては同じではない。

日本に関係することは、私という多面体の存在すべてに関係するものであって、職業という一面だけに関わるものではないのである。


"I love anime"
"Japanese culture is interesting"
"I studied Japanese"
"I like Japan"

といった言葉を聞くたび、うれしさの反面、いつも妙な気分を覚える。

これらの言葉は日本人である私を構成する不可分なもの、つまり歴史と文化、そしてその象徴・総体としての私の国に対する賛辞であるが、私個人に向けて放たれたものではない。

私を前にして、「私」ではなく、「私の背景」に対して放たれているのである。

多くの人はそんな風には考えず、「Japanese people are polite」「Japanese culture is interesting」という言葉を、「You're polite」「You are interesting」と解釈してうれしくなる。

自分を構成する不可分なパーツに対する部分的・概括的な賛辞を、すべて個人的なものとして取る。

誰でも自分の国を.....もし「国」といってわかりにくいのなら、自分の「会社」を、自分の「学校」を、自分の「家族」を褒められたら、それをまるで自分が褒められたかのように取ってしまうのは自然だろう。

とてもよく理解できる。

しかし私は理解したくないのである。

「家族」ならまだかろうじてわかる。関わる人数が少ないから。

しかしこれが「学校」とか「会社」、ましてや「国」とか「文化」レベルになると、もはやわからない。

私にわからないのは、自分の所属しているその集団や集合的存在に対する私の貢献である。

たとえば私がある作品を作り、それがなんらかの形で日本の文化の価値を増したとする。

そこで外国人が「日本の文化」を誉めたとしたら、それが依然として私個人に対する賛辞でなくても、「私の成したことに対する褒め言葉」として取ることができる。

つまり私は、自分は何もしていないのに「日本語の音は魅力的」とか「日本人はきれい好き」「日本の電車は絶対に遅れない」とかいった外国人の言葉で嬉しくなってしまう日本人の軽薄さに呆れているのである。

私はもしかしたら度を超えて個人主義的な人間なのかもしれない。

私はもしかしたら度を超えて「日本」が象徴するあらゆるもの.....文化、歴史、伝統......に一体感を感じられなくなってしまっているのかもしれない。

どちらであれ、事実として私は外国人からの賛辞を素直にうれしくとることはもはやできない。

それは怠け者の自分を増長させる麻薬だと感じる。

「すごくない自分をすごいと思わせる」麻薬である。

なので私は外国に行き、外国人と交流することは無常の楽しみだと思いながら、外国の地で永住することはもう夢見ていない。

いつまで経っても日本人として扱われるのは耐えられないと知ってしまった。

こういう今の私には、日本人という属性がさらに目立つセルビアの地にめまいのするほど長く住む著者の、現地住民との関わり合いをふんだんに含む日常生活について書かれたこの本は、読み続けるのがむずかしかった。


もうひとつ、『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』を読みながら思ったのは、「アウトサイダー」についてだった。

上記のように、文化的にも歴史的にも、ましてや人種的にも日本とはまったく異なるセルビアの日本人は、一見して明らかなアウトサイダーである。

しかしアウトサイダーである人に、どこまでその国の民族的な根源的苦しみがわかるのであろうか。

それはどこまでも観察者としての「オブザーバー参加」に留まるのではなかろうか。

この本の冒頭には東日本大震災の話が出てくるが、ここでも逆のことを思った。

外国で日本について考えたり日本のニュースを見たりすることの危険、身を半分だけ浸した状態で物事を、歴史を語る危険である。

肉体的にその地にいない分、物事を実態以上に捉えてしまう。

表現者、あるいは物書きとして大袈裟に考えてしまう心性はここに拍車をかけるだけである。

外国の事柄においては、現地の人間の精神世界が把握できず、そして日本のことは肉体的にいない分「現場感覚」が欠けてしまう。

そこでセルビア、日本、どちらの出来事でも、外に留め置かれたアウトサイダーとして推量に頼らざるを得なくなる。

それは当然、かなり部分RomanticismとSentimentalismに侵されたものになるだろう。

つまり日本に住む日本人、そしてセルビアに住むセルビア人は実は何も感じていないのに、「感じている」と思い込んでしまう。

これが特に戦争や悲劇といった、表現者の大好きな同情や憐憫を誘うものならなおさらだろう。


このように自分をあまりに重ね合わせたせいか、私は『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』を少し読んで止めてしまった。

そこから別の本を読み始めてもよかったが、はじめて開いた山崎氏の本で得た印象がいまだに鮮やかだったので、それを確かめたいがために『そこから青い闇がささやき』を読み始めた。

この本と出会ったのは昨年2022年の1月である。

最初のページ数行を読むと、まるで佐井好子のあの硬質で冷えた歌声が聞こえてくるようだった。

文章を読んでいて歌声が聞こえてくるという体験ははじめてで、今でも鮮やかな印象として残っている。

そういう非常にめずらしい感覚の中で本を始めたのであるが、読み進めることはできなかった。

それはこちらにも書いたように、日記形式のものは内容あるいは著者への強い関心がないと、先に進むモチベーションが湧かないためである。

そして私は本を閉じた。


あの日から今日まで1年と3ヶ月の月日が流れた。

この間に世界と私に起きたことを思うと妙な気がする。

まず2022年2月にウクライナで戦争が始まった。

2003年に刊行されたこの本のメインパートは90年代のNATO空爆下の生活だが、それはこの一年間、さまざまなところで見聞きした現在進行形のウクライナの人たちの状況と重なる、いや同じものである(それを示すかのようにこの本の文庫版が昨夏出版されている)。

また私は5月から3ヶ月間ベオグラードに、その後1ヶ月間サラエボに滞在した。

そのためこの本の舞台となっているベオグラードやサラエボの景色が実感をもって思い浮かぶ。

これは景色だけでなく「詩」についてもいえる。

この本には詩に関係するイベントや詩についての近所の人たちとのやりとりなどが多く出てくるが、これは日常生活に詩などない普通の日本人の感覚からすると実に不思議である。

ここに著者が詩人であることを考え合わせると、これらは筆者特有の生活環境がなすもののように思えてしまう。

しかし私はセルビアにいたわずか3ヶ月の間に、現地の詩人たちと偶然会うことが複数回あった。

それは彼の国では、普通の人の生活の中でも詩が生きていることを示しているようだった。

こういう現地へ実際に赴いたからわかる感覚、そしてウクライナのこと......、この一年、本はなにも変わらずそこにあったのに、世界と私が変わり、いつのまにか私たちの距離はとても近くなっていたのである。


読み進むと、『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』を読んでいる時にあった「著者のアウトサイダー性」に対する疑問を私がまったく感じていないことに気がついた。

この地上の歴史に名を残すことなく人生を終えて消えていくはずだった人たちの人生が、こういう形で、彼女の手を通して、ユーゴスラビアから遠く離れた地球の反対側の地に届けられていること。

それはなにか偉大なことなのではなかろうかと思ったのである。


また、『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』にいまいち入り込めなかったのは、これが今と近い時代について書かれているからだと思われた。

私が現代の小説を読まない理由とも通じるが、現在、あるいは過去10年ほどの事物を描いたものは、今を生きる私との距離が近すぎてどうも馴染めない。

時間がすぎ、距離があき、私を取り囲むいまの現実との関連をおおよそ失っている世界でないと、夢を誘われず、また安心して読むこともできないのである。