by axxxm
22/August/2025 in Kraków
先日、私が好きなある男性歌手のラジオを聴いていた。そして2年近く心に引っかかっていた疑問が解けた。彼も同じ認識を持っていたのである。
2023年10月、日本を代表するある歌手が突然この世を去った。多くの尊敬を集めていたので、数多くのアーティストがSNSやネット上に追悼のコメントを出しているのが見られた。
亡くなったその歌手と、私が好きな歌手の間には、生前いくつかの交流があったことは周知の事実である。しかし彼は追悼のコメントも「つぶやき」も一切しなかった。沈黙を守っていた。その理由が、今回ラジオを聴いてようやくわかったのである。
私は今でも、ネットに書かれたもの、特にSNSに書かれたものは、それがどんなに深い気持ちの表れのように見えるものであっても、どうも軽さを感じてしまう。
これはネットに限らない。動画であれ文章であれ、表現されたもの、外に出されたもの、つまり他者の存在を意識した上でなされるものは、自意識が絡まってきてパフォーマンス性を帯びる。そのため、感情の純度が薄くなったと感じられるのだ。その人の中にある「感情そのまま」ではなく、多分に変質し劣化したものに見えてしまう。
三島由紀夫は『小説とは何か』の中で、小説の会話シーンにはいつも浮薄なものが感じられると述べ、その理由を日本人の心理に求めている。「一番重要なことは口に出して語らない」という心理である。
痛切な悲しみ、痛切な感謝、痛切な苦しみ・・・、あらゆる痛切な感情は決してオモテに表すことはできず、そして表した途端に戯画になる。感情の純潔を守る唯一の方法はオモテに出さないことであり、自分の感情を大切にしたいならオモテに表すべきではないのだ。
目の前にいる人、例えば知人の一人や二人に話すならまだしも、ネットの不特定多数の前で表すということに、ある不真面目さを感じてしまう感覚は珍しいものではないだろう。スマートフォンで文字を打っている姿や、動画のカメラをセットしている姿が「真摯」に見えるだろうか?感情の奔流は、そんなことをする余裕を人間に許すだろうか?