by axxxm
14/June/2023 in Tokyo
「中年男は太っていなければならない」
こんなことを思ったのは数年前のこと、バロセロナからローマに向かう飛行機の中でだった。
ななめ前には40代半ばの男が座っており、細い脚とジーンズがなぜか私の注意をひいた。
「細い脚」と書くとどこかポジティブなイメージが浮かぶが、しかし私の受けた印象の中にはポジティブなものはひとつもなく、むしろその痩せた足は病的に見えた。
そして私が気がついたのは、中年男には2つしか選択肢がないことだった。
ひとつは太ること。
もうひとつはファッションに気をつかうこと。
大部分の男はひとつ目の選択肢を、決断することもなく選び、そして事実そうするべきなのであるが、その理由は次のとおりである。
「中年男」と聞いたとき想像するのは、すっきりした体つきや引き締まった姿ではなく、脂肪が余計についた、締まりのない体つきの、服装もさえない男である。
若いころにあったであろう「爽やかさ」は霧散しており、よどんだ空気に包まれている。
「鋭さ」はすべて削ぎ落とされ、丸みを帯びている。
「希望」はすでに「諦め」に置き換わっている。
しかしこのような憐憫を起こさせるものこそ、中年男の愛嬌である。
太った男には愛嬌がある。
人生経験がもたらす認識の深さや、人間を見通す鋭い目つきは、それだけだと近づきがたい印象を与えるが、しかし太った体つきの愛嬌で相殺されることで、親しみやすさが出てくる。
もしこれで引き締まった体をしていたり、おしゃれだったりすると、そこには「自分がどう見られているか」という自意識の影が見えてしまう。しかし自意識とは結局若者のものである。
年を重ねた人間には、「別に細かいことにこだわらなくても人生はやっていける」というおおらかさが欲しい。
なんでもかんでも注意を払って、すべてのことに完璧でないといけないという潔癖主義と繊細さは若者のものであって、中年男には、こだわりのあることは別として、大抵のことはどうでもいいといったような投げやり、あるいは寛容が似つかわしい。
つまり中年男の脂肪過多で弛緩した身体つきとは、内面の投げやりと寛容の肉体的な表れなのである。
一方で痩せた中年男は、服装に気を使わなければならない。
そうでなければ、外見に気をつかわないことは「寛容」ではなく単なる「なまけ」と見られ、痩せた体つきからは当然「愛嬌」などは生まれず、むしろ栄養の足りていない虚弱と惨めさだけが目立つからである。
しかしすでに書いたように、ファッションへの関心とは自意識のなすものであって、そういった過剰な自意識と繊細さはどうしても中年という年齢に似合わない。
そのため中年男が進むべきもっとも自然な道は太ることにしかないと私は考えるのである。